宋史演義第五十三回 妓を挟み歓を縦にし歌楼恩沢を被る/尊を屈し宴に就き相府にて恩を承く (挾妓縱歡歌樓被澤 屈尊就宴相府承恩)
李師師との出会い
延福宮界隈の灯篭祭りには歌妓が多く集まっていたが、中でも評判の名妓・李師師は美貌・歌唱ともに評判が高かった。窓辺の李師師と目が合った徽宗が声を漏らすと、傍らの蔡攸・王黼も気づく。李師師は以前から面識のあった王黼に微笑みかけ、王黼は徽宗に「李師師の家に遊びに行きませんか」と持ちかける。蔡攸はためらったが、王黼は「微行なら誰にも知られない」と押し切り、徽宗を李師師の家に導いた。王黼は開封の出身で、進士に及第後、何執中・蔡京や童貫・梁師成らに取り入り、弁が立ち徽宗の意を迎えることに長けた人物であった。
忍び通いの始まり
李師師は三人を迎え入れ、徽宗は素性を隠して宴に興じた。酒宴では李師師が小曲を歌い、蔡攸・王黼が座を盛り上げる中、次第に座は乱れていった。夜更けに蔡攸・王黼が席を外すと、徽宗は李師師とその夜を共にする。宮中に戻ってからも徽宗は李師師のことが忘れられず、寵愛する小劉貴妃をも上回るほどであった。以後、王黼の手引きで再三密会を重ね、李師師は後宮入りを望んだが、身分上難しく、徽宗は「密かに宮中に招く」形で会うことを許した。以後、李師師は宮中に出入りし、後宮の妃嬪たちとも打ち解けて親しく交わるようになった。
林霊素の茶番
ある日、林霊素が便殿で徽宗と仙界の話をしていると、「九華玉真安妃が来る」と言って現れたのは実は寵妃の小劉貴妃であり、徽宗は大笑いした。続いて「神霄侍案夫人」と称して現れたのも後宮の崔貴嬪であった。ところがそこへ李師師が現れると、林霊素は「妖狐の気配がする」と騒ぎ立て、火かき棒を持って打ちかかろうとし、周囲に止められる一幕があった。徽宗が「これは教坊の李師師だ」と説明しても林霊素は「妖狐に相違ない、殺せば尾のない屍が出るはずだ」と言い張り、聞き入れられないと憤然と退出した。
翌日、徽宗が林霊素に「廷臣に仙侶はいるか」と尋ねると、蔡京を「左元仙子」、王黼を「神霄文華使」、鄭居中・童貫らも仙班に連ねると答えた。徽宗が上清の宮を新たに建てるよう求めると、林霊素は延福宮東側に壮大な醮宮(上清宝籙宮)を建てさせ、内侍梁師成・楊戩らが監督にあたった。梁師成は太乙宮使を務め阿諛によって権勢を得た人物で、蔡京父子も彼に一目置くほどであった。
教主道君皇帝
宮の完成後、林霊素は道士を集めて盛大な斎醮を行い、政和七年には「千道会」を開いて多数の道士・女道士を集めた。林霊素は壇上でいい加減な説法を行い、猥雑な話に興じて場は騒然となったが、徽宗はこれを珍重した。やがて道籙院に密詔が下り、「朕は上帝の長子・太霄帝君であり、天下を正道に導くため人主となった。卿らは朕を教主道君皇帝に冊立せよ」との内容で、廷臣はこぞって祝賀した。あわせて道学(内経・道德経を大経、荘子・列子を小経とする学制)と道史(道教の歴史編纂事業)が設けられた。折しも西方で対西夏戦の勝報が続いたため、徽宗はますます道教への信心を深めた。
対西夏戦の推移
童貫は延福宮造営の後も兵権を握り続け、夏の李が寝返りの偽情報を流して夏の監軍を誘い出す策を用いた際、転運使任諒がこれを見破って夏軍を退けた。童貫は陝西経略使に任じられ、劉法・劉仲武らを率いて出兵し、古骨龍で夏軍を大敗させ、六路の辺事を統括するに至った。臧底河城攻めでは一時大敗を喫したが童貫はこれを隠蔽して報告せず、その後仁多泉城を降し、劉法は城内の兵民を皆殺しにした。この戦功で童貫は開府儀同三司・簽書枢密院事に進み、蔡京も連座して恩賞を受け、三省の政務を総覧する地位と魯国公の爵を得た。
蔡京一族の栄華と皇太子との軋轢
蔡京の四男・鞗に茂德帝姫(徽宗の第六女)が嫁ぎ、蔡攸は多くの重職を兼任、弟の蔡翛も保和殿学士となるなど一門は権勢を極めた。皇太子桓(王皇后所生)に蔡京が瑠璃酒器を献上した際、太子はこれを「心を蕩かそうとするものだ」として叩き割らせ、側近の陳邦光もこれに同調した。蔡京はこれを恨み、太子には手を出せぬため陳邦光を弾劾させて陳州に左遷した。
太宰何執中は十余年にわたり蔡京に追従するのみで実績なく、老年に至って太傅として引退、まもなく病没した。後任の鄭居中は蔡京の施策是正に努めたが実効は乏しく、少宰劉正夫は日和見、鄧洵武は蔡京・蔡攸に阿るのみであった。劉正夫の辞任、鄭居中の服喪を経て余深が少宰となったが、余深はもともと蔡京の腹心であり、政務はことごとく蔡京の意向に従った。
蔡氏一門の権勢は極まり、蔡攸の妻は禁中に出入りして寵遇を受け、徽宗自ら蔡京邸に赴き君臣の礼を略して親戚同然に振る舞うほどであった。蔡京邸での饗宴は一献一食に千金を費やす豪奢を極め、徽宗はこれを咎めず「公相の厚意」として喜んで受け、茂德帝姫や蔡家の子女まで同席する家族的な宴が催された。宴の後、蔡京は謝表に「主婦が上寿の杯を勧めれば喜んで受け、幼子が衣を引けば快く引き留められた」と記した。
評語
著者は、李師師の事は正史に見えないものの稗史に広く記され虚妄ではないとし、蔡攸・王黼が微行を主導した罪を問う。天下の社稷を託される身でありながら娼妓と密通したことは、亡国の君主にも劣る振る舞いであり、蔡攸・王黼の罪は免れがたいとする。林霊素が李師師を妖と見なしたことについては、李師師もまた一種の妖であり、その言に理があると認める。後半の蔡京邸訪問の逸話は、前半の李師師の逸話と呼応しており、李師師が色で君を惑わし、蔡京が佞によって主君を惑わした点で本質は同じであると指摘し、『論語』の「鄭声を遠ざけ佞人を放つ」の教えこそ本回の主旨であり、鄭声を好む者は必ず佞人に近づくものだと徽宗を評して結ぶ。