宋史演義第五十一回 巧みに排擠し輔臣を毒死す/招徠を喜び異族を載せて帰る (巧排擠毒死輔臣 喜招徠載歸異族)
蔡攸の登用と偽祥瑞
徽宗は蔡京の再登用に続き、その長子蔡攸を龍図閣学士兼侍読に抜擢した。蔡攸はかつて端王時代の徽宗に礼を尽くして印象づけ、即位後は次々と出世していた。学才はなかったが花石や珍鳥を献上して主君の歓心を買った。蔡京も引き続き夷狄の内附や祥瑞の捏造を装い、実際は金銭で買収した服属を「威徳の感化」と偽って報告させ、黄河清・甘露・霊芝・双頭蓮など様々な瑞祥を次々と奏上させた。両頭の亀が献上された際、蔡京はこれを覇者の瑞兆と祝ったが、鄭居中が「異常であり妖の兆し」と反駁すると、徽宗は態度を翻し亀を金明池に捨てさせ、鄭居中を同知枢密院事に登用した。蔡京はこれを不快に思った。
八宝と蔡京・童貫の栄進
数か月後、篆文入りの玉印が献上され、徽宗はこれを鎮国宝と名づけ、秦制にならい六璽を新鋳させて先の秦璽と合わせ「八宝」とした。蔡京は太尉に進み、大観二年には八宝を受けて大赦を行い、蔡京は太師に、童貫は節度使に加えられた。蔡京の党である林攄・余深も要職に就いた。
張懐素事件と蔡京の危機
妖人張懐素が謀反の疑いで誅されると、蔡京兄弟にも累が及び、鄧洵武は罷免、蔡卞も落職したが、御史中丞・開封尹の林攄が取り成し蔡京は罪を免れた。以後蔡京は余深・林攄と結んで政権を固めた。
張康国の暗殺
尚書左丞から知枢密院事に昇った張康国は、もとは蔡京の引き立てだったが、権勢を争って対立するようになり、徽宗も蔡京の驕慢を疎んじて康国に監視を命じた。蔡京はこれを察知し、腹心呉執中に康国弾劾を命じたが、康国が先手を打って徽宗に訴え出たため、逆に呉執中が徽宗の怒りを買い左遷された。蔡京はなお康国の排除を図り、康国はある日出仕先で急に腹痛を起こして悶死する。廷臣は毒殺を疑ったが誰も口にせず、徽宗は表向き手厚く弔い開府儀同三司を追贈、諡「文簡」を与えて事を収めた。後任には鄭居中が起用された。
林攄の失脚と鄭居中の蔡京弾劾
集英殿での貢士唱名の際、中書侍郎林攄が受験者の姓名を読み違え、指摘されても謝らず横柄な態度を取ったため弾劾され罷免された。代わって余深が中書侍郎、薛昂が尚書左丞となった。薛昂は蔡京への阿諛が甚だしく、家中では「京」の字を口にすることすら憚った。
鄭居中は枢密の権を握ると、蔡京への旧怨から台諫を使嗾して弾劾させ、御史中丞石公弼・殿中侍御史張克公らが数十通の弾劾を上奏した。さらに方士郭天信を通じて「太陽に黒点が現れたのは宰相が君を欺く前兆」と密奏させると、徽宗は動揺し蔡京を太乙宮使に落として楚国公に改封、以後は朔望のみ入朝させることとした。洪彦昇・毛注らも弾劾を続け、太学生陳朝老らは蔡京の罪十四箇条(瀆上帝・罔君父・結奥援・軽爵禄・広費用・変法度・妄制作・喜導諛・箝台諫・熾親党・長奔競・崇釈老・窮土木・矜遠略)を列挙して上奏した。結局蔡京は致仕を命じられて京師に留まり、何執中が尚書左僕射兼門下侍郎となった。大観四年、彗星出現を機に石公弼・毛注・張克公らが重ねて蔡京の不軌不忠を論じ、蔡京は太子少保に落とされ杭州に出た。余深も後ろ盾を失い自ら官を辞して青州に出た。
張商英の改革と失脚
張商英が杭州から召還され中書侍郎、のち尚書右僕射に進み、蔡京の苛政を改める諸策を奏し内外の評判を得た。彗星消滅と旱魃後の降雨が重なったため世は「天人相応」と称え、徽宗も「商霖」の二字を書いて商英に賜るほど信任した。商英は蔡京の旧法を次々廃止し、奢侈を戒め土木を止めるよう諫めたが、次第に徽宗の信任は薄れていく。左僕射何執中は蔡京の同党であり商英と衝突、鄭居中と結んで商英排斥を図った。王皇后崩御から二年、後宮の座は鄭貴妃に移ることが確実視され、鄭居中は同族である貴妃との縁を頼みに、執中と共に商英を攻めた。
大観四年十月、鄭貴妃は皇后に冊立された。鄭居中は好機と見て商英排斥に動こうとしたが、鄭皇后自身が「外戚は政に関わるべきでない」と徽宗に諫めたため、逆に居中が観文殿大学士に落とされ、吳居厚が知枢密院事となった。居中は逆恨みして商英への攻撃を強め、商英の食客唐庚を左遷させ、さらに商英が方士郭天信と交際していたことを弾劾させた。徽宗は商英を疑い、河南府に左遷、のち崇信軍節度使にまで落とし、郭天信も単州に流された。かつて天信は徽宗の即位を予言して的中させ寵を得ていたため、商英も同様の予言力を天信に見出されるのを恐れ、両者ともに退けられたのだった。
蔡京の再々登用と童貫の遼使
商英失脚後、何執中が再び政を専らにした。蔡京は執中に取り成しを求めたが執中は躊躇していた。折しも童貫が遼への使者から帰る途中、遼の臣馬植を連れ帰って推挙し、蔡京も呼び戻されて太師の位を復し、この二人が後に金と結んで遼を滅ぼし、ひいては宋を滅ぼす禍根となる。
遼の内紛(蕭皇后事件と天祚帝の即位)
ここで遼の情勢が語られる。遼主洪基の后蕭氏は才色兼備で寵愛されていたが、北院枢密使耶律乙辛が専権を恃み后の聡明を忌んで、宮女単登らと謀り、伶官趙惟一との密通を誣告した。洪基は真偽を確かめず趙惟一を処刑、蕭皇后も自ら首を括って死んだ。皇太子濬(蕭后の子)への報復を恐れた乙辛は、一族の妹を新たな后に立てて東宮を讒言し、洪基は濬を庶人に落として幽閉、さらに乙辛は刺客を放って濬とその妃を殺害した。濬の子延禧は宮中で密かに保護され、乙辛はこれも害そうとしたが、宣徽使蕭兀納らの諫言で守られた。
洪基は狩猟中に乙辛の従者の多さに疑念を抱き、乙辛を南院大王に転出させ、のちその不正が発覚して幽閉・誅殺した。蕭后は宣懿皇后、濬は昭懐太子と追諡され、延禧は梁王に封じられた。
徽宗の代、洪基が病死し孫の延禧が即位して天祚帝と称したが、荒淫で国事を顧みなかった。この間に東北の女真族が台頭する。女真はもと靺鞨、混同江東部に住み、唐代に初めて朝貢、五代以降「女真」と称された。遼の支配下にある南部を熟女真、支配外の北部を生女真と呼んだ。
女真の勃興とアグダの武勇
生女真の完顔部酋長烏古迺は近隣部族を服属させ、遼から生女真節度使に任じられて勢力を強めた。烏古迺の後、劾里缽、頗剌淑、盈哥と兄弟継承が続き、盈哥は甥の阿骨打(アグダ)を輔佐に得てさらに勢力を伸ばした。
崇寧元年、遼の将蕭海里が謀反して女真の阿典部に逃げ込むと、盈哥は遼と結んでこれを討伐、阿骨打が単騎で蕭海里を斬り首級を挙げた。この戦いで遼兵の弱さが女真に見透かされることとなった。
盈哥の死後、甥の烏雅束が継ぎ、高麗と結び諸部を従え遼と対抗する勢いを見せ始めた。
童貫・馬植と対遼工作の発端
西方で成果を上げていた童貫は遼にも野心を持ち、遼への賀使(正使鄭允中・副使童貫)となった。その途上、遼の元光禄卿馬植と出会い、遼の滅亡を予見して寝返るというその言に乗せられ、汴京に連れ帰って「李良嗣」と改名させ推挙した。馬植は徽宗に「遼は必ず滅ぶ。宋が女真と結んで挟撃すれば遼を滅ぼせる」と献策、徽宗は喜んで秘書丞に任じ趙姓を賜り「趙良嗣」と呼ばれるようになった。この対遼・対金工作が後の禍根となる。
評語
著者は、徽宗の治世で登用された宰輔は韓忠彥を除きすべて小人であったとし、なかでも蔡京は最たる存在で、何執中・張康国・鄭居中・張商英らはその亜流にすぎないと断じる。何執中は終始蔡京に阿り、張康国・鄭居中・張商英の三人は当初蔡京に付き従い、のちに攻撃に転じたが、付き従うのも攻撃するのも結局は己の栄達のためであったとする。小人は君子を容れないだけでなく、同じ小人すら利のためには排斥し合うものであり、徽宗が信と疑いの間を揺れ動いたことがまさに小人の思惑につけ込まれる隙となったと指摘する。宦官である童貫が節度使・三公にまで列せられたのは太祖以来の先例になく、遼への野心にかられ、人にも数えられぬ馬植のような人物まで重用されるに至った。小人が小人すら容れられぬのに、どうして君子を用いられようか、宰相に蔡京、宦官に童貫を戴いては、宋が滅びぬはずがないと結ぶ。