宋史演義第二十八回 蕭耨斤、権を挟み主母を弑す/趙元昊、号を僭し辺疆を寇す (蕭耨斤挾權弒主母 趙元昊僭號寇邊疆)

尚・楊二美人の追放と曹皇后の冊立

仁宗が尚・楊二美人に溺れ体調を崩すと、楊太后は宦官閻文応を通じて二人を宮外へ追放させた。翌年、故枢密使曹彬の孫女が曹皇后として立てられ、廃后の郭氏は瑤華宮に移された。曹后は仁宗の後継を案じ、宗室から幼児(後の英宗)を養子に迎えた。郭氏は仁宗の未練にもかかわらず、閻文応の毒殺により急死したとされる。范仲淹が文応の罪を弾劾し左遷、文応も道中で病死した。楊太后も間もなく崩御した。

契丹の内情

契丹の蕭太后は東京留守の子・韓徳讓と密接な関係を結び、徳讓を丞相・晋王に取り立てた。両者の死後、契丹主隆緒は徳讓の棺を母のそばに合葬させた。高麗の内乱を契丹が鎮定し、遼東では大延琳の乱が起きたが討平された。隆緒の死後、養子の宗真(実母は蕭耨斤)が即位。隆緒は死に際し、養母である隆緒后を大切にするよう遺言した。

蕭耨斤の専横と隆緒后殺害

蕭耨斤は太后を称して隆緒后の弟を謀反の疑いで追及し、宗真の反対を押し切って隆緒后を上京へ遷し、ついに自尽させた。宗真は母を恨みつつも、数年後に耨斤が末弟重元を擁立しようとする陰謀を知り、耨斤の権を奪って幽閉、自ら親政を行った。

西夏・吐蕃をめぐる情勢

吐蕃の唃廝囉は宋に西夏討伐を求めたが認められず、独自に秦州へ侵攻するも曹瑋に撃退され、後に宋に帰順して官位を得た。

元昊の即位と対宋強硬策

西夏主趙徳明の子・元昊は雄毅で野心家であり、父の対宋恭順路線に反発した。徳明の死後に襲位すると、宋・契丹双方から冊封を受けつつも独自の制度・文字を整え、仁宗景祐元年に環慶へ侵攻。宋軍は各地で敗れたが、仁宗はなお懐柔策を取った。元昊は吐蕃・回鶻にも侵攻を繰り返し、勝敗を重ねた。

元昊の称帝

元昊は華州の書生二人(張元・吳昊)の献策を受け入れ、興州を都と定めて皇帝を自称、国号を大夏、年号を天授とした。宋への上表文では自らの正統性を誇示しつつ冊封を求めたが、宋廷は元昊の官爵を剥奪し互市を禁じ、討伐の懸賞をかけた。夏竦・范雍を按撫使に任じたが、いずれも実効なく、王徳用の登用も仁宗の疑心により見送られた。

狄青の武勇

元昊が保安軍に侵攻した際、巡検指揮使の狄青が仮面をつけ髪を振り乱して奮戦し、寡兵で夏の大軍を撃退した。仁宗はその働きに注目した。(詩:仮面を着け奮戦する狄青の武功を讃える内容)

評語

宋の劉太后と契丹の蕭太后は内政の様相が似通っており、曹后・隆緒后がそれぞれ養子を立てた点も奇しくも一致する。ただし蕭耨斤が主母を弑した非道は宋には見られず、華夷の礼教の差を思わせる。西夏の徳明・元昊父子は対宋・対契丹の二重外交を行い、元昊はついに帝を僭称するに至った。宋廷には文治の人材はあれど武略に乏しく、辛うじて狄青の奮戦が気を吐いたに過ぎない。良将を低い地位に埋もれさせたことが惜しまれる。