宋史演義第一十九回 宿怨に報い故王命を索む/乱党を討ち宦寺兵を典どる (報宿怨故王索命  討亂黨宦寺典兵)

尹継倫の勝利と趙普の晩年

  • 尹継倫の奇襲で瀕死となった耶律休哥は辛くも逃げ延び、契丹はその後「黒面大王」を恐れて深入りを控えるようになる。
  • 太宗は淳化と改元。趙普は三度目の入相ののち老齢を理由に辞任を願い出て西京留守、のち太師・魏国公となる。晩年は秦王廷美の祟りに悩まされる夢に苦しめられ、祈祷文をしたためるが、その文が風に飛ばされて世に知れ渡ってしまう。趙普は71歳で病没し、太宗は手厚く弔い尚書令・真定王を追贈する。
  • 趙普の人物像として『論語』半部で天下を治めたという逸話、直諫を貫いた挙止、二人の娘が出家した逸話などが紹介される。

呂蒙正の宰相登用

  • 趙普引退後、張齊賢・陳恕・王沔らが要職に就くが不和が続き、最終的に呂蒙正が再び宰相となる。呂蒙正の若き日の苦労(継母との不和、寺での冷遇)や、悪口を言う者を意に介さない度量、鏡の献上を固辞する清廉さ、人材登用に努めた実務手腕が語られ、北伐にも慎重論を唱えて内政重視を説く。

王小波・李順の乱

  • 淳化四年、四川の青神で王小波が貧富の格差是正を掲げ蜂起する。苛政を敷いた県令齊元振を殺害して勢力を拡大するが、王小波は戦傷がもとで死去する。
  • 義弟の李順が後を継ぎ成都を陥落させ「大蜀王」を僭称するまでに至る。朝廷は宦官王継恩を両川招安使として派遣し、各地で激戦の末に成都を奪還、李順は捕らえられ処刑される。
  • しかし残党の張餘がなお暴れ、王継恩も蜀で驕り遊興にふけって統治を怠ったため、太宗は張詠を益州知事に任じる。張詠の善政(塩と米の交換による兵糧確保、民心の安撫)により反乱はようやく鎮圧される。太宗は詔を発して自らの人選の誤りを認めた。

評語

  • 趙普の功績を認めつつ、陳橋の変・廷美の獄という二つの汚点を厳しく批判し、晩年の祟りの逸話も「幻の中の真実」として趙普への天罰的な意味合いを込めていると論じる。
  • 蜀の乱では、宦官を将帥に用いた太宗の人選を疑問視し、乱が小規模だったからこそ鎮圧できたが、さもなくば唐末の二の舞になりかねなかったと警鐘を鳴らす。