宋史演義第一十一回 絵像を懸け計りて敵臣を殺す/浮梁を造り采石にて功成る (懸繪像計殺敵臣 造浮梁功成采石)
劉鋹の処遇
汴京へ護送された南漢主劉鋹は太祖の前で「国事はすべて龔澄樞・李托が取り仕切り、自分は臣下同然だった」と弁明した。太祖は龔澄樞・李托を処刑する一方、劉鋹本人は赦して官爵を与えた。献上された精巧な珠竜細工を見て太祖は「この工巧の才を政治に用いていれば滅びずに済んだものを」と評した。後日、太祖から賜った酒を劉鋹が毒を疑って辞退する一幕もあったが、太祖自ら先に飲んで見せ、以後も厚遇した。
南唐の恭順と林仁肇
南漢平定に恐れをなした南唐主李煜は弟の李従善を通じて国号を返上し「江南国主」と称するまで低姿勢を示した。江都留守の林仁肇は宋の隙をついて淮北を回復する策を献じたが、李煜は用いなかった。太祖は勇将林仁肇を警戒し、密かに肖像を描かせて江南に送り込んだ従善に見せ、林仁肇が宋に内応しているかのように仕向ける離間の計を用いた。これを信じた李煜は林仁肇を酒宴に招いて毒殺してしまう。
趙普の失脚
太祖は南唐主の入朝を重ねて求めたが李煜は病と称して拒み続けた。折しも旧周の恭帝が没し、趙普をめぐる疑惑も生じて南征は一時見送られた。呉越王銭俶からの高価な贈り物を趙普が受け取っていた一件、秦・隴の禁制の大木を私的に売買していた一件が発覚し、太祖の信も薄れて趙普は河陽三城節度使に左遷された。代わって盧多遜が参知政事に登用された。
南唐征討の発令
李煜は皇后の妹を後継の皇后として溺愛し、霓裳羽衣の曲に興じるなど国事を顧みなかった。太祖はついに曹彬を都部署、潘美を都監、曹翰を先鋒として十万の兵を南唐に差し向けた。出陣にあたり太祖は曹彬に「殺掠を禁じ、李煜一門を害するな」と厳命し、剣を授けて軍紀違反者への専断権を与えた。
采石の浮橋
南唐の樊若水は科挙に落第して宋に帰順し、かねて釣りを装って測量していた長江の幅を絵図にして献上、これを基に采石磯に浮橋を架ける策を進言した。宋軍は樊若水の図に従い黄黒竜船を建造し、荊湖から長江を下る。江南の守備は油断しており、宋軍は池州・銅陵を難なく落とし、采石に三日で浮橋を完成させ、大軍が地続きのように渡江した。
金陵包囲
李煜の重臣張洎は浮橋建設を「あり得ぬ話」と一蹴したが、宋軍はすでに渡江していた。江南の水陸軍は潘美らに次々と撃破され、白鷺洲・新林港・溧水も陥落。秦淮河の攻防では潘美自ら馬で川を突破し全軍がこれに続いた。李煜は僧道を集めて祈祷にふけり、都指揮使皇甫継勲は宋軍接近を隠していたことが発覚して処刑された。
朱令贇軍の壊滅と降伏交渉
李煜は上流の朱令贇に十五万の兵で采石浮橋を焼こうとするが、曹彬配下の王明が疑兵の計で夜襲し、風向きにも助けられて朱令贇軍を壊滅させ本人を捕らえた。金陵はもはや後詰めを失い、学士徐鉉を汴京に送って停戦を懇願させることとなった。
評語
原文の評は、江南の林仁肇は宋の隙を衝いて江北回復を図る志こそ立派だが、時勢を見誤った謀だったとする。李煜が内政を修め賢臣を用い色を遠ざけていれば持ちこたえられたはずで、みだりに衅端を開いたのが誤りであり、離間の計が無くとも林仁肇は朱令贇と同じ運命を辿ったろうと評する。李雄父子の忠死は評価しつつも、李煜の昏庸の前では良将も無力であったとし、霓裳羽衣の享楽が亡国の兆しであったと結ぶ。