宋史演義兵変を戢め再び西川を定む/王師を興し南漢を平ぐるを得(第 十 回 戢兵變再定西川 興王師得平南漢)
花蕊夫人と七宝の溺器
宋太祖は花蕊夫人を寵愛し、政務の合間もそばに置いて戯れた。夫人は詩才にも優れ、蜀滅亡を詠んだ「十四万人斉しく甲を解く、また一個も男児無し」の一句は評判となった。孟昶の旧邸を接収した際、七宝で作られた贅沢な溺器が見つかり、太祖は「これでは亡びぬはずがない」と嘆いて砕かせた。さらに夫人の鏡の裏に旧蜀の元号「乾徳」の銘があるのを見つけ、自分が改元した「乾徳」と偶然重なっていたことを知る。竇儀の博識な説明に太祖は感心し、竇儀を宰相候補と見たが、趙普が「学識はあるが政務の才に欠ける」と一言で退け、失意の竇儀はまもなく病没した。
全師雄の乱
蜀で王全斌の軍が驕り、掠奪と圧政を重ねたため、文州刺史全師雄を推した反乱が起こる。部将朱光緒が全師雄の一族を殺し娘を奪ったことでいっそう激化し、両川一帯が呼応して蜂起した。王全斌は降兵二万七千を皆殺しにするなど強硬策で事態を悪化させたが、劉光義・曹彬は軍紀を守り民心を得て進軍し、全師雄を各地で撃破。全師雄は敗走の末、金堂で力尽きて死に、残党も次第に平定された。
論功と改元・立后
凱旋した王全斌は掠奪と殺戮の罪を問われ降格処分となった。曹彬は清廉さを称えられて厚く賞され、宣徽南院使に抜擢された。太祖は蜀と同じ「乾徳」の元号を改めることを決意し、花蕊夫人を皇后に立てる案を趙普に諮るが、「亡国の寵妃は天下の母にふさわしくない」と諫められ、代わりに宋偓の娘を皇后に立てた(開宝元年)。寵を失った花蕊夫人は悲しみのうちに病を得て世を去り、太祖もしばし涙したが、やがて忘れていった。
北漢への出兵
北漢主劉鈞の死後、養子の継恩が跡を継ぐと太祖は隙ありと見て李継勲に北伐を命じた。しかし継恩は臣下に殺され弟の継元が立ち、遼に救援を求める。遼軍の来援で李継勲は退き、北漢・遼連合軍は逆に晋・絳を掠奪した。太祖自ら親征し太原を三月にわたり包囲するが、劉継業(後の楊業)らの奮戦と遼の後詰めにより攻略できず撤兵した。
南漢の由来と乱政
道州刺史の上書を機に、太祖は南唐を通じて南漢主劉鋹に服属を促すが拒絶される。南漢は劉隠に始まり、二代目劉龑が僭称し、劉玢・劉晟を経て劉鋹に至る。劉鋹は宦官龔澄樞と才人盧瓊仙に政治を委ね、自らは波斯女(媚豬とあだ名)に溺れ、酷刑や重税を課すなど荒淫を極めた。宗室や功臣を粛清し、宦官李托一族が実権を握っていた。
宋軍の南漢征討
太祖は潘美・尹崇珂を南征に遣わす。龔澄樞は防戦に及び腰で撤退し、将の伍彦柔は宋軍の伏兵に討たれ晒し首にされる。老将潘崇徹も士気低く傍観するばかりで、宋軍は昭・桂・連の三州を落とし韶州に迫った。象兵を並べた李承渥の陣も潘美の強弓策で総崩れとなる。劉鋹が起用した郭崇岳は迷信頼みの無能な将で、宋軍の火攻めにより馬逕の柵は焼き払われ、崇岳も焼死した。
南漢の滅亡
龔澄樞・李托は「北軍は財宝目当てだから先に焼いてしまえば退くだろう」と府庫・宮殿に自ら火を放つ愚挙に出るが、混乱の中で宋軍はそのまま入城し、劉鋹以下九十七人を捕らえた。命乞いに来た宦官らも斬に処され、広州は平定された。南漢は劉隠以来五代六十五年で滅亡した。当時の童謡が偶然この滅亡の日付と符合していたと伝えられる。
評語
原文の評は、淫乱・暴虐に走った者は必ず滅びると説く。王全斌は蜀を平定しながら驕り殺戮に及んで全師雄の乱を招き、劉光義・曹彬の民心収攬あってこそ討伐が成った。劉鋹の淫虐は最たるもので、龔澄樞・李承渥・郭崇岳のような凡将しかいない南漢は良将がいても支えきれなかった。太祖もまた好色の嫌いはあったが暴虐ではなく、後世の為政者への戒めとして記される。