西南諸夷――五代から宋初の朝貢
- 西南諸夷は漢代の牂牁郡の地で、武帝の元鼎6年に西南夷を定めて牂牁郡を置いた。唐は費・珍・莊・琰・播・郎・牂牁・牂夷等州を置いた。その地は北は充州まで150里、東は辰州まで2400里、南は交州まで1500里、西は昆明まで900里で、城郭なく村落に散居し、土は熱く霖雨が多く稲粟は二熟するが徭役はなく、戦征には刻木を契として集めた。その法では劫盗した者は主に三倍を償わせ、殺人者は牛馬30頭を家に出して贖罪させた。病疾に医薬はなく銅鼓・銅沙鑼を撃って神を祀り、風俗は東謝蛮と同じであった。隋の大業末、首領謝龍羽がその地に拠り勝兵数万人を有したが、唐末に王建が西川に拠ると中国と通じなくなった。
- 後唐天成2年(927年)、牂牁清州刺史宋朝化ら150人が来朝したが、その後孟知祥が西川に拠ると朝貢は再び絶えた。乾德3年(965年)に孟昶が平らげられ、乾德5年(967年)知西南夷南寧州蕃落使龍彦瑫らが来貢、彦瑫は帰徳将軍・南寧州刺史蕃落使とされた。順化王武才は懐化将軍、弟の若啓は帰徳司階、武龍州部落王子若溢・東山部落王子若差・羅波源部落王子若臺・訓州部落王子若従・雞平部落王子若冷・戦洞部落王子若磨・羅母殊部落王子若母・石人部落王子若藏はみな帰徳司戈とされた。開宝2年(969年)、武才ら140人がまた来貢し、鈿函・手詔を求めたが旧制にないとして許されなかった。開宝4年(971年)、涪州に南寧州蕃落使龍彦瑫の卒去と歸徳将軍武才ら八刺史の状が伝わり、彦瑫の子漢瑭を嗣とし南寧州刺史兼蕃落使に任じた。開宝8年(975年)、39部の順化王子若発ら377人が馬160匹・丹砂千両を貢した。太平興国5年(980年)、夷王龍瓊琚が子の羅若従及び諸州蛮744人と共に方物・名馬を貢した。
- 太平興国6年(981年)、保州刺史董奇が死に子の紹重が継いだ。雍熙2年(985年)8月、奉化王子以慈ら350人が方物を貢した。夷王龍漢璿は権南寧州事兼蕃落使を自称し牂牁諸州酋長趙文橋に種族百余人を率いて方物・名馬及び蜀孟氏から給された符印を献じさせ、漢璿は帰徳将軍・南寧州刺史、文橋らは懐化司戈とされた。端拱2年(989年)、漢璿は五渓都統向通漢に書を貽って入貢を約した。淳化元年(990年)、漢璿は弟の漢興を遣って朝じ、淳化3年(992年)夷王龍漢興・都統龍漢[□(底本欠字)]刺史龍光顕・龍光盈及び順化王雨滞らが各々馬・朱砂を貢した。至道元年(995年)、王龍漢[□(底本欠字)]は使者龍光進を遣し西南牂牁諸蛮と共に貢方物、太宗が召見して地理風俗を尋ねた。
- 訳者によれば「地は宜州から陸行45日、土は五榖を宜しく秧稲を多く種え、木弩で麞鹿を射て食とする。300戸ごとに1州となし州には長がある。人を殺す者は死を償わず家財を出して贖う。国王の居には城郭はあるが壁塁はなく、官府はただ短垣のみ」といい、光進の説と前の書の記す所とやや異なるためあわせて記す。太宗はその国の歌舞を演じさせると、一人が瓢笙を蚊蚋の声のように吹き、数十輩が連袂し宛転として舞い足で地を踏んで節とし、その曲を「水曲」と名づけたという。使者十数輩・従者千余人はみな蓬髪・面目黧黒で猿猱のようで、使者は虎皮氊裘を着て虎尾を首に挿して飾りとした。漢[□(底本欠字)]は寧遠大将軍・歸化王に封じられ、帰徳将軍羅以植は安遠大将軍、保順将軍龍光盈・龍光顕はともに安化大将軍とされ、光進ら24人はみな将軍・郎将・司階・司戈を授けられた。本国の使者従者には甲頭・王子・刺史・判官・長史・司馬・長行・傔人の7等の名があった。
- 咸平元年(998年)、王龍漢[□(底本欠字)]は使龍光腆を遣り牂牁諸蛮千余人と共に来貢、光腆ら130人に官を授けた。咸平3年(1000年)、都部署張文黔が来貢。咸平5年(1002年)、漢[□(底本欠字)]はまた牙校に部蛮1600人・馬460匹及び薬物・布帛等を率いさせ来貢、崇徳殿で冠帯を賜り厚く賚して還らせた。咸平6年(1003年)、知全州銭絳が溪峒名豪の招誘を請うたが生事を懸念して寝され不報。景徳元年(1004年)、西南牂牁諸国の進奉使が親しく朝廷に至る場合は広南西路に兵を発して援護させることを詔した。先に龍光進らが朝じた際、上は道の遠さで人馬が多く斃れたことを憐れみ宜州から恩物を賜わることとしたが、この時懇請により闕に詣でることが許された。景徳2年(1005年)、覊縻保覇州刺史董紹重・董忠義に歳ごとの紫綾錦袍を詔した。景徳4年(1007年)、西南蛮羅甕井都指揮使顔士龍らが来貢、種落が遐阻で来朝したことがなかったため館餼・賜予を高溪州の例とした。
- 大中祥符元年(1008年)、瀘州は江安県夷人が殺傷し内属戸を害した廵検任賽が不安に陥り乱を為したと報告、詔して閤門祇候侍其旭を招撫に遣わし旭が至ると蛮人は首罪し牲を殺して誓ったがまもなく再叛、旭は追斬数十級・首領3人を擒えたが、蛮の斗婆行者を衣服紬布で誘降させ按誅しようとした際、上は旭が召して殺したことを招安の実に反すると詔で戒め、恩信を篤くし方略で制御するよう命じた。大中祥符2年(1009年)、旭は夷人が巌険を恃み帰服しないと言い、文思副使孫正辞らを都廵検使とし三路に分けて境に入らせ兵威で震慴させた。大中祥符3年(1010年)、正辞は夷人が安集したと報告し嘉奨の詔。先に蛮の羅忽余は忠順で井監を防援し違命者を捕殺していたが、内臣郝昭信を遣って褒慰し蛮党の前罪を赦すよう諭した。大中祥符4年(1011年)、茂州夷族首領耆老が三渓で牛犬を刑して州界を侵さないと誓い、峡路鈐轄は乱を為した夷人王羣体らを闕下に執送、上は蛮夷が教義を知らないこと・守臣の綏撫の失も原因であるとしてみな死を免じ江浙の遠地に分隷した。同年、覇州董喆が廵検使董延早に殺された。大中祥符5年(1012年)、黎洞夷人が互いに殺害し廵検使が発兵掩捕したことを上は切責し「蛮夷相攻は辺吏に和断させるべきで擅に発兵するのは擾動を招く」として有司に代わりの人選を命じた。
- 同年、晏州多剛県夷人斗望行牌が衆を率いて淯井監を劫し駐泊借職平言を大掠、知瀘州江安県奉職文信が兵を領して赴くと遇害し民は驚擾して戎州に走保した。転運使寇瑊は諸州廵検を江安県に会集させ公私船百余艘に糧甲を載せ旗幟を張って銅鑼鼓を鳴らし蜀江を下って清浮垻に営柵を樹て近界夷族を招安し大兵到来を諭した。まもなく納溪・藍順州刺史个松生南八姓諸団烏蛮広王子界・南広溪移悦等11州刺史李紹安・山後高鞏6州及び江安界娑婆村首領がみな盟を乞い竹を立てて誓門とし猫狗鶏の血を酒に和して飲み、瑊は牓を掲げて官軍到来時の老幼不殺を約し衣幣酒食を給した。上は内殿崇班王懐信を遣わし瑊らと綏撫方略を議させ、瑊は斗望らがしばしば寇鈔し寛赦を恃んで悪を悛めないとして嘉睂の屯兵の発と震懼を求めた。
- 大中祥符6年(1013年)9月、懐信を嘉睂戎瀘等州水陸都廵検使、閤門祇候康訓・符承訓を都同廵検使とし虎翼神虎等兵3000余人を発し懐信と瑊に進討を商度させた。上は樞密使陳堯叟に、先の孫正辞討蛮に冒険した虎翼小校3人を今懐信に配することや、正辞が簡した「白艻子兵」(山川険要に精通した郷丁)を懐信にも召募させたことを述べた。また使臣宋賁が溪洞の事にしばしば規画し機要に中ったため賁を知江安県として懐信らと共に事を議させた。瑊は昌・盧・富順監の白艻子弟6000余人を点集、11月に懐信・康訓は緣渓から合灘を入り生南界斗蒲村に至り夷賊2000余人と戦い500人を殺傷し梭槍・藤牌を奪い、暮に会し衆を収めて砦を保った。
- 夷党3000余人が両道に分かれ旗を張って喊呼し砦柵に逼ったが懐信が出撃して潰散させ、娑婆に進んで壁とし夷2000と羅募村で遇いこれも破り、斗行村を追って屏風山に至り四砦を連破し一日三戦で百余人を俘馘、資糧5000石・槍刀什器万数を奪い羅固募・斗引等30余村の庵舎3000区を焚いた。懐信はまた兵を引いて斗行村に至り追撃し盧羅を過ぎて百余人を射仆し欄柵千数を爇き、部下を羅箇・頬羅・能落運等の村及び龍峨山に分遣して掩殺し戎具を大獲、斬首級・重傷による投崖死は頗る多く、家舎千区・積穀累万を焼いた。両路の兵は涇灘に会し砦を置き康訓に壕砦卒を部して涇灘路を修めさせ大軍を渡らせようとしたが夷賊に邀われ戦い不利で訓は崖に巓落して死んだ。懐信は兵を引いて急撃し大敗させ涇灘まで追斬した。
- 懐信は晏江口に夾んで砦とし、瑊は符承訓と共に賊が夜に晏江を撃とうとしていることを偵知して懐信に馳報、懐信は涇灘から砦を抜いて赴いたが至った時には晏江北山の夷衆万余が既に東南から合勢して懐信の砦に逼っていた。懐信は強弩を彀いて砦を環らせ賊を射、瑊らは衆を整えて高きに乗って策応、夷人は大いに懼れて却き合撃で破り死傷は千余人に及んだ。大中祥符7年(1014年)正月、酋の斗望が三路に分衆して来闘したがまた官軍に大敗され射殺数百人・溺死者は数え切れなかった。夷人は震讋して軍に詣で首服し牛羊・銅鼓・器械を納め、瑊らは詔に依って撫諭し2月に軍を淯井に還した。夷首の斗望及び諸村首領が悉く監に赴き自陳して死を貸されれば永く辺境を寇盗しないと願い、三牲を殺して盟誓し辞は懇苦であり、牢酒で犒って感悦させ去らせた。瑊・懐信らは夷人が寧息を願うため淯井監の壕柵設置と近界市馬の許可を上言、許された。
- 大中祥符8年(1015年)、夔州路は南寧州夷族張声進が進奉の使者を遣わすと蕃落使龍漢[□(底本欠字)]が邀奪・讐劫を止めず勅書での安撫を求めたと報告。天聖4年(1026年)龍光凝、康定元年(1040年)龍光琇、景祐3年(1036年、順不同)龍光辨、慶暦5年(1045年)龍以特、皇祐2年(1050年)龍光澈らが相継いで方物を献じ、以特と共に至った者は719人にのぼった。この年、安遠将軍知蕃落使龍光辨は寧遠軍大将軍、寧遠将軍知静蛮軍節度使龍光凝は承宣武寧大将軍、龍異豈はともに安遠大将軍、承宣奉化大将軍龍異魯は武寧大将軍とされた。至和中(1054-1056年)龍以烈・龍異静・首領張漢陛・王子羅以崇らが入貢、その首領以下93人に大将軍から郎将までの官を命じた。嘉祐中(1056-1063年)以烈が再び至った。おおむね龍姓諸部族は地が遠く貧しかった。熙寧中(1068-1077年)来見した際に袍帯等の物を賜い数を背に刺した。張玉石なる者も嘉祐中に来貢し、鶼州も人を遣して馬を貢した。董氏は世々保州を知り、仲元という者は州を襲うこと20余年に及び、益州鈐轄司はその善く蛮夷を拊することを表し本州刺史に任じた。鶼州・保州はいずれも西南辺地である。
- また瀘州部の夷があり、これも西南辺地で管する所の十州は鞏・定・高・奉・淯・宋・納・晏・投附・長寧といい、みな夷人が居して山険に依り寇掠を善くした。淯井監は夷地の中にあり朝廷が吏を置いて統べたが人材を得なければしばしば事を生じた。慶暦4年(1044年)4月、夷人が三江砦を攻めたため詔して秦鳳路総管司に兵千人を発し官を選んで馳赴させ捕撃させた。まもなく瀘州の教練使生南招安将史愛が夷賊斗敖らを誘降させ三班差使殿侍・淯井監一路招安廵検に補されたが、まもなく夷衆は再び三江砦を寇し指使王用らが撃走した。
- 皇祐元年(1049年)2月、夷衆万余が淯井監を囲み水陸不通が久しく続いた。初め監戸の晏州夷人が銭を斗落妹の妹に敺傷したことでその衆が憤怒して報復を欲し、知瀘州張昭信が勧諭してすでに聴服していたのに淯井監がまた婆然村夷人細令らを執えて長寧州落占ら10人を殺した激しやすい火種があったため乱が成った。知益州田况に旁郡の土卒を発させ梓夔路兵馬鈐轄宋定を遣って援けさせ、両路合わせた官軍と白艻子弟ほぼ2万人が戦い死者は甚だ多く饑死もまた千余に及び、数月してようやく平らげ况及び転運使に勅書で褒奨、宋定以下13人にも秩を有差で進めた。後に况は朝に還り夷衆連年の乱は主者が人を得ていないことに因るとして転運鈐轄司に知監・監押の選官を挙げさせ代還の日に特遷一資すべきと奏し許された。嘉祐2年(1057年)、三里村夷斗還ら150人が再び内寇を謀ったが黄土坎夷斗蓋(長寧州人)が先んじてこれを告げたため淯井監が引兵して趨き7000余級を捕斬、鈐轄司が上聞し斗蓋に銭30万・錦袍銀帯を賜い翌年には長寧州刺史に補した。瀘州部は旧領の姚州が廃されて久しかったが烏蛮王子得蓋なる者がその地に来居し部族は最も盛んで、しばしば人を官に遣り州名を得て夷落を治めたいと願い出て「姚州」の号と鋳印を賜い、後に得蓋はさらに子孫に遺す勅書1通を乞い許された。夔州路にはまた溱・南二州の夷があり頗る盛強で、皇祐初、詔して今後歳ごとに使者を遣わし存問することとした。
- 雅州西山野川路蛮もまた西南夷の別種で州から300里、部落46を有し唐以来みな覊縻州であった。太平興国3年(978年)、首領馬令膜ら14人が名馬・犎牛・虎豹皮・麝臍を貢し唐朝の勅書告身7通を併せ上呈、みな冠帯を賜り首領はみな官を授けられ遣わされた。紹聖2年(1095年)、碉門砦蛮の畿王元寿が懐化司戈を襲った。
黎州諸蠻
- 黎州諸蛮は凡そ12種、山後両林蛮は州の南7日程、邛部州は州の東南12程、風琶蛮は州の西南1100里、保塞蛮は州の西南300里、三王蛮(部落蛮とも)は州の西100里、西箐蛮(彌羌部落あり)は州の西300里、浄浪蛮は州の南150里、白蛮は州の東南100里、烏蒙蛮は州の東南千里、阿宗蛮は州の西南2日程にあり、風琶・両林・邛部はみな「東南」と総称され、その他の小蛮は各々分隷した。邛部は諸蛮の中で最も驕悍狡譎で蕃漢の亡命を招集し他種を侵攘し道を閉じて利を専らにした。大雲南蛮・小雲南蛮すなわち唐の南詔、今の大理国は自ら伝がある。夷俗は鬼を尚び祭主を「鬼主」と呼んだため酋長を「都鬼主」と号した。
- 後唐天成間(926-930年)から入貢し始め、開宝2年(969年)6月壬子、勿児が部落将軍離魚を遣し10月内の入貢を黎州に告げ成都府が上聞、詔して答え開宝3年(970年)7月にも朝貢した。開宝6年(973年)4月、邛部州帰徳将軍阿伏が山後両林蛮勿児の堡砦侵掠を上言。開宝8年(975年)、懐化将軍勿尼ら60余人が来貢、勿尼は帰徳将軍、両林蛮の大鬼主蘇吠は懐化将軍とされた。太平興国2年(977年)、王子卑綵・副使牟蓋・鬼主還祖ら78人が名馬を貢し正朔の頒布を乞い、山後両林蛮主勿尼・勿兒らの環衛の秩を増し、勿尼は帰徳大将軍、勿兒は懐化大将軍に特授された。同年冬、離魚が犀2株・馬9匹を貢し登極を賀した。太平興国4年(979年)、勿兒と都鬼主が王子祚遇を遣し名馬を貢した。太平興国8年(983年)、蛮主弟牟昂及び王子牟蓋・摩忙卑愧・副使牟計ら239人が来貢、牟昂は懐化大将軍、牟蓋ら3人は帰徳郎将、牟計ら120人はみな懐化司戈とされた。雍熙3年(986年)、勿尼らと王子李奉恩が再び馬を貢した。淳化元年(990年)、王子離魚・副使卑都・卑諭・鬼主岥礼ら128人が来貢、離魚は帰徳将軍、卑都は保順郎将、卑諭は帰徳司戈、卑熱ら54人は懐化司戈とされた。天禧2年(1018年)、山後両林百蛮都鬼主李阿善が将軍卑熱ら150人を遣して来貢した。
邛部州蛮
- 邛部州蛮は「大路蛮」「勿鄧」とも呼ばれ、漢の越嶲郡会無県の地に居し酋長は自ら「百蛮都鬼主」と称した。開宝3年(970年)6月、都鬼主阿伏が10月の王子入貢を黎州に告げ成都府が上聞、詔して嘉納。開宝4年(971年)、黎州定遠兵士の叛乱が鹿角渓に聚居した際、阿伏は弟の游に将軍卑吠らを率いて平定させ、阿伏に銀帯錦袍、衆に銀帛各百を賜って歸徳将軍とした。開宝6年(973年)、阿伏と山後両林蛮主勿兒が言語の行き違いから勿兒が兵を挙げ邛部州を侵し部落を頗る俘殺、黎州が上聞し詔して各々封疆を守り侵犯しないよう慰諭した。太平興国4年(979年)、首領牟昂・諸族鬼主・副使離襪らが各々方物を貢した。雍熙2年(985年)、都鬼主諾駆及び母の熱免が王子阿有ら172人を遣し方物・名馬を貢、諾駆は懐化将軍、母に銀器を賜った。端拱2年(989年)、弟の少蓋ら350人を遣し来貢、籍田の際は御馬14匹・馬280匹・犀角2・象牙2・莎羅毯1・金銀飾蛮刀2・金飾馬鞍勒1具・羱羊10・犛牛6を貢し、少蓋は帰徳郎将とされた。
- 淳化元年(990年)、諾駆自ら馬250匹を率いて黎州に至り互市を求め、その直を増給、諾駆は西蕃でさらに良馬を求め中市に用いたいと訳者を通じ言った。淳化2年(991年)、また子の牟昂・叔の離襪が方物・良馬・犀牛を貢し加恩を乞い、諾駆は懐化大将軍、少蓋は懐化将軍、牟昂は帰徳将軍、離襪は懐化司戈とされた。駆の母も帰徳郡太君、熱免は寧遠郡太君に封誥され、弟の離遮・小男呵酔・都判官任彦徳ら191人は懐化司戈とされた。至道元年(995年)、李順が西川で乱を起こし王継恩がこれを討平した際、嘉州牙校辛顕を遣して諾駆に淳化2年授与の官告勅書及び日暦を信として持たせ、賊の樊秀らとの接戦に勝ったことを報告させ、朝覲・嘉州旧路の通行を再請したが、継恩は嘉州路の通行に反対し黎州でのみ売馬を許すべきと上言、詔して入覲は不允、王子19人にはみな加官し鬼主36人にも勅書を賜って撫した。
- 至道3年(997年)、王子阿酔が来朝。真宗咸平2年(999年)、王子部的らが文犀・名馬を貢し衣帯・器幣を有差で賜り、大渡河南山前後都鬼主の名で印章を給すよう乞い許された。咸平5年(1002年)、王子離帰ら200余人が入貢。咸平6年(1003年)、黎州は邛部州都蛮王諾駆の卒去と子の阿遒の即位を報告。景徳2年(1005年)、阿遒は王子将軍192人を遣して来貢、阿遒は安遠将軍、阿遒の叔は懐化将軍、阿育は帰徳将軍、離帰は懐化将軍、大判官懐化司候任彦徳・王子将軍部的はともに懐化郎将、判官任惟慶は懐化司候とされた。大中祥符元年(1008年)、将軍趙勿娑らが名馬・犀角・象歯・娑羅毯を献じ、泰山での礼が畢わると阿道に加恩し勿婆らに厚賜して還らせた。
- 天聖8年(1030年)10月、邛部州都蛮王黎在は卑都離滅らを遣して方物を貢し、当時占城・亀茲・沙州も入貢し家を伴っていたため晏殊がその人物・衣冠を図らせ道里風俗を史官に上るよう請い許された。天聖9年(1031年)3月、黎在を保義将軍とし部族もまた郎将・司戈・司候30余人に命じた。明道元年(1032年)、黎州は黎在の3歳一貢の請いを道路遐遠として5年一至に諭した。景祐初(1034年頃)、邛部蛮の歳入貢の請いに明道の令のように従った。宝元元年(1038年)、百蛮都王忙海が将軍卑蓋らを遣して方物を貢し3歳一貢を請ったが許されなかった。慶暦4年(1044年)、邛部州山前山後百蛮都鬼主牟黒が将軍阿済ら339人を遣し馬210・犛牛1・大角羊4・犀株1・莎羅毯1を献じた。慶暦間、都鬼主弁黒らが入貢したが、まもなく王の咩墨が辺を擾したため知黎州孫固がその首領苴尅に殺させた。
- 熙寧3年(1070年)、苴尅は使者を遣し登極を賀し自ら「大渡河南邛部州山前山後百蛮都首領」と称し、勅書・器幣・襲衣・銀帯を賜った。この年苴尅が死に、詔して子の韋則を懐化校尉・大渡河南邛部州都鬼主とした。熙寧9年(1076年)、将軍卑郎ら14人を遣して入貢。乾道元年(1165年)、崖韈が兄蒙備の金紫光禄大夫・懐化校尉・都鬼主を旧のごとく襲ぐことを詔した。淳熙元年(1174年)、吐蕃が西辺を寇した際、崖韈が衆を率いて掩撃し功を嘉された。淳熙2年(1175年)5月、両林蛮王の弟籠畏及び酋長崖来が部義らを率いて邛部州の籠甕城を攻めたが克てず大掠して去り、崖韈が追ったが及ばなかったため制置使范成大は黎州に厳備を檄した。淳熙8年(1181年)、崖韈が死に姪の墨崖が職を襲い、黎州の屯戍土軍・禁軍及び西兵は辺事に遇うたびに本州守臣の節制に従わせることが詔された。嘉定9年(1216年)、邛部州は雲南に逼られてついに屈従し、その族は素より効順して辺陲を捍禦していたが雲南に帰属し西南の一藩籬を失った。
風琶蛮・寳塞蛮・部落蛮
- 風琶蛮は咸平初(998年頃)その王曩薆が使者烏柏らを遣して馬57匹・素地紅花娑羅毯2を貢し即位を賀し、曩薆及び進奉使らに官を授け優賜し遣わした。景徳3年(1006年)、また烏柏を遣して来貢、曩薆は帰徳将軍、烏柏ら46人は郎将・司階・司戈とされた。
- 寳塞蛮は開宝間(968-976年)その蛮70余人が大渡河から来帰し、時々来て善馬を貨した。紹興27年(1157年)、川秦都大司は漢地の民張太二姑が衆を率いて市馬蛮客の崖遇らを劫殺し辺釁を啓く恐れがあったため慰諭し直を償ったと報告、詔して知州唐秬・通判陳伯強を官を免じ首賊を抵法に処した。
- 部落蛮には劉・楊・郝の三姓があった。淳熙7年(1180年)10月、黎州五部落蛮が馬300匹を貢して内附を求め、互市の許可のみ許し献馬は却けた。彌羌部落は乾道9年(1173年)、吐蕃青羌が知黎州宇文紹直の馬価不払いに憤り乱を為したため紹直を罷免、青羌首領奴児結らの市馬に黎州が大いに虜掠を働き、権州事王昉が金帛を多給して急いで還らせたが、宣撫使虞允文は昉の貪功が他部の効尤を招き辺釁を啓くと懸念し詔して昉を両官降した。10月、黎州で吐蕃が虎掌砦を再度攻めたため四川宣撫司に成都府から兵2千を調え黎州を戍らせ禦がせた。
- 淳熙2年(1175年)、奴児結が虜掠した生口39人を還し黎州と盟い互市・給賞を復した。制置使范成大は虜が尽く還らないのに好を通じるべきでないと述べ、宇文紹直の千里外編管を詔し、成大は黎州五砦の強壮5千人を戦兵に籍し吐蕃入寇の径18すべてに堡を築いて戍らせた。奴児結が衆2千で安静砦を扣ると成大は飛山卒千人を遣り三日で必ず遁げると計り果たしてその通りとなった。青羌の奴児結は辺害を為すこと10余年に及んだが、後に制置使留正が計により禽殺しその党を尽く殲した。淳熙12年(1185年)、趙汝愚が代わって制置使となった際、殺降不祥・辺患を招く恐れがあると言う者があったが汝愚は動じず険要を分守し備えを厳にして待った。翌年、奴児給の弟三開が入寇したが辺備の固さで攻め能わず走り帰り、汝愚は重賞をもって羣蛮を離間させ三開は孤立して憂死した。虚恨蛮族が最強で小路蛮を破りその地を併せ黎州と接壌して互市の通行を請うたが、汝愚は黎州が三面被辺の中さらに虚恨蛮と通ずれば他日の憂いを重ねると考え拒み、帝は大体を知るとして従った。まもなく汝愚は青羌平定の功で龍図閣直学士に加えられた。
- 嘉定元年(1208年)12月、彌羌の蓄卜が悪水渡河から黎州を寇し碉子砦を破った。初め蓄卜の弟悶巴が三衝で人に殺され、また白水村渡を安静砦に徙したことで羌人が患いとし、蓄卜は青羌と邛部州に詣で女児城の道を仮りて入寇しようとし、守臣楊子謨がこれを諜知して都王母に貲を贈り道を貸さぬよう促し米も時々饋わせ饑を済うと蛮人はこれに徳を感じたが、趙公庀が代わって郡を治めると靳んで与えず蓄卜はついに道を得て河を渡り茅坪砦を攻め三松・蚕砂・横山・三増・白羊の諸村を掠めた。郡が西兵の将党寿を遣って禦がせたが失利し、統領王光世を再度遣したが羌人は茅坪から革船で河を渡ろうとする所、光世はこれを憚って三衝に留屯し進まず、羌人は焼掠を尽くして渡河し帰った。嘉定2年(1209年)2月、再び黎州良渓砦を寇し官軍が敗績。嘉定8年(1215年)2月、蓄卜が降った。蓄卜は連年入寇したがみな青羌の曵失索が助けたもので、守臣袁枏が安静砦総轄杜軫を遣して招降させた。他に浮浪蛮・白蛮・烏蒙蛮・阿宗蛮などもそれぞれの地に服属した。