環州
- 環州蛮区氏の州は宜州に隷し覊縻され思恩・都亳の二県を領した。区希範なる者があり思恩の人で狡黠にして書を知り、進士を挙げ礼部の試を受けたことがあった。景祐5年(1038年)叔の正辞と共に応募し官軍に従って安化州の叛蛮を討ったが、まもなく希範は登聞鼓を撃って録用を求め宜州に下されたが知州馮伸已がその妄を言い全州に編管され、正辞もまた功を自陳したが報われず二人とも觖望した。希範は後に逃げ帰り正辞と共にその族人及び白崖山酋蒙趕・荔波峒蛮と乱を謀り、伸已を殺そうとし「広西一方を得れば大唐国を建てる」と言った。
- 日者石太清が至ったので占わせると「君の貴は封侯を過ぎず」と言われたが、太清に日を選ばせ牛を殺し壇場を建てて天神を祭り蒙趕を帝に、正辞を「奉天開基建国柱王」に、希範を「神武定国令公桂州牧」に推し、みな北に向かい再拝して天命を受けたとし、区丕績を宰相とするなど偽って官職名号を補置すること40余人に及んだ。慶暦4年(1044年)正月13日、衆500を率いて環州を破り州印を劫し積聚を焚き環州を武城軍と改称、さらに帯渓砦を破り鎮寧州及び普義砦を下し衆1500を得た。宜州捉賊李徳用が韓婆嶺を出て撃退し前後に多くを斬獲、偏将2を俘えたため希範は懼れて荔波洞に入って保ち間々官軍に抗した。朝廷は詔してこれを購い、希範・正辞及び趕らを獲て大いに袍帯・銭30万・鹽千斤を賜った。
- 翌年、転運使杜杞は大兵を環州に引き、攝官区曄・進士曾子華・宜州校吴香に趕らを降させ誘い出し、牛馬を殺し酒を具えて盟を紿り、曼陀羅花を酒に入れて飲ませ皆昏酔させ稍呼び起こしては問慰と称し至れば推し仆して後廡に置いた。暮れになって衆がようやく覚り驚走したが門に守兵があって出られず悉く擒えた。数日後、希範らも得て凡そ200余人を獲、78人を誅し余はみな配徙、希範は醢刑に処され諸溪峒にその五臓を絵にして布告し世に伝えた。余党は悉く平らげられた。鎮寧州もまた宜州に隷した。
- 景祐3年(1036年)、蛮酋莫陵ら700余人が内寇し西京作坊使郭志高・閤門祗候梁紹熙が討伐に赴いたが、至る前に陵らは桂宜州廵検李仲政に降を請い、広西転運使が詔を待たずその罪を貸したため詔して劾されたが、後に釈された。同年、高竇州の犾獠陳友朋らも海上を寇したが本路が兵を会して撃退した。