宋史卷四百九十五 列傳第二百五十四 黎洞

黎峒

  • 黎峒は唐の瓊管の地で、大海の南にあり雷州から泛海一日で至る。地に黎母山があり黎人が居した。旧説によれば五嶺の南は夷獠が雑じり朱崖では豪富が兼併して貧弱者を役属した。婦人は緦を服し木皮を績んで布とし、土を陶して釜器とし瓠瓢を用いた。石汁を飲み椒酒があり安石榴花を甕中に着けて酒とした。俗に山嶺を「黎」と呼び居する者を「黎人」と号した。弓刀は手を離さず弓は竹を弦とした。今の儋・崖・萬安はみな黎と境を接し、州県に服属する者を熟黎、山峒に居し徴徭のない者を生黎と呼び、時に郡人と互市した。
  • 至和初(1054年頃)、黎人符護が辺吏に奴婢10人を獲られ返還されたが、符護もまた辺を犯し瓊崖州廵検慕容允則及び軍士を執え、軍士56人と允則をこの時来帰させたが允則は道で病死し、来た軍士の罪は貸された。乾道2年(1166年)、広西経略転運司の議に従い海南諸郡の倅守に黎人を慰撫させ朝廷の恩信を示し省地を返還させることとし、乾道元年以前の租賦の負逋はすべて赦免、来帰する者は租を5年復し、産のない民には官が田を給しこれも租を5年復し、守倅で黎人を慰安し省地・民を収復した者には功の大小に応じ賞を有差で与え、地・民を失った者には重罰を科すと詔した。乾道6年(1170年)、黎人王用休の乱を権万安軍事同主管本路廵検孫滋らが招降した。乾道9年(1173年)(原文では8年)、楽昌県の黎賊が省民を劫し県治を焼いて乱を為したが黎人王日存・王承福・陳顔が招降し、瓊管安撫司が上功して承節郎に借補された。淳熙元年(1174年)、承節郎王日存の子孫の襲職が許された。淳熙4年(1177年)冬、万安軍王利学が省地を寇し蓋旻が兵を進めて拒んだが兵弱く戦没した。淳熙8年(1181年)6月、三十六峒都統領王氏の女に宜人の襲封が詔された。初め王氏は化外に居し累世辺陲に功を立て封爵を受けていたが、紹興間に瓊山の民許益が乱を為した際、王母の黄氏が諸峒を撫諭し従乱する者がなかった功で宜人に封じられ、この時黄氏は年老いて子がなく女の襲封を請い許された。
  • 紹興12年(1142年)正月、楽会県白沙峒黎人王邦佐らが賊衆500を率いて寇し官軍を殺掠したが、保義郎陳升之がその衆を撫降し林智福らを俘え瓊管司が上功して升之は3年の磨勘を減じられた。淳熙16年(1189年、原文は「十六年」)、大寧砦黄弼が承信郎に補され本界黎峒を彈圧することが詔された。瓊管司は弼が沈鷙で謀があり遠近に推服されているためと言い、弼は宜人黄氏の姪であった。嘉定9年(1216年)5月、宜人王氏の女呉氏が三十六峒の襲封統領を詔された。