大食国
- 大食国はもと波斯の別種。隋大業年間、波斯の桀黠者が瑞石を得て衆を糾合し自立、波斯の西境を領した。唐永徽以後朝貢が相継ぎ、王の代替わりで白衣大食(盆泥未換以前)・黒衣大食(阿蒲羅拔以後)と呼び分けられた。乾徳四年、僧行勤の西域行に際し招懐の書が贈られた。開宝年間から歴代の王(訶黎仏・蒲希密ら)が朝貢し、太平興国二年の使者には崑崙奴と呼ばれる従者が同行した。
- 淳化四年、舶主蒲希密が老病のため副酋長李亜勿に貢物を託し、華麗な四六駢儷文の表を献じた。象牙五十株・乳香千八百斤など詳細な貢物目録が記される。至道元年、舶主蒲押陁黎が来訪し、大秦国との隣接関係、象・犀の捕獲法(象は象媒でおびき寄せ縄で捕らえ、犀は大木の上から矢で射る)などを語った。
- 咸平・景徳年間を通じ、三佛齊・蒲端国使らとともに元宵節の観灯に招かれる厚遇があった。大中祥符年間、東封・汾陰祭祀への従祀、百三十歳と称する老人無西忽盧華の来訪などが記される。天禧年間以降、入貢路が沙州経由から夏国経由となり、西夏の妨害を避けて天聖初に海路(広州経由)に改められた。熙寧年間、使者辛押陁羅が蕃長司の権限強化を求めたが認められず、代わりに広州城修築への出資を申し出るも許されなかった。政和年間、押伴官が香薬の代金を不当に抑えた事件が起き、以後は承務郎以上の清廉な官を押伴に選ぶ制度が定められた。
- 大食国は泉州から西北に四十余日で藍里に至り、さらに六十余日で本国に達する。瑪瑙の柱・緑甘の壁・水晶の瓦など豪華な宮殿を持つとされる。建炎三年、宝玉・珠貝を献じた際、帝は「大観宣和の頃、茶馬の政が廃れ武備を怠ったために金人の禍を招いた。今、無用の珠玉に数十万緡を費やすより戦士の養成に充てるべき」と述べ、張浚に命じて返却させた。紹興元年にも犀角・象牙を貢ぎ、朝廷は厚く応対しつつ利を貪らなかったため、遠人はこれに懐き貢献が絶えなかったと記される。