回鶻
- 回鶻はもと匈奴の別種で天徳の西北、娑陵水のほとりにいた。北魏では鉄勒、唐初は特勒、後に回紇と称された。君長を可汗と呼ぶ。至徳初、安史の乱の平定を助けた功で歴代優遇されたが、驕り高ぶって朝廷を悩ませたこともある。元和年間に回鶻と改称、会昌年間に国が衰乱し、相馺職が甥の龎勒を奉じて西奔、後に幽州張仲武に破られ龎勒は自ら可汗を称して甘・沙・西州に拠った。五代を通じ朝貢が続き、後唐同光年間には仁美が英義可汗、その弟仁裕が順化可汗、後晋天福年間には奉化可汗と冊立された。唐以来、公主が降嫁した縁で回鶻は中朝を「舅」、中朝は回鶻を「外甥」と呼ぶ慣例があった。
- 建隆・乾徳・開宝年間を通じ、景瓊・阿都督らが継続して朝貢。太平興国二年、甘沙州回鶻可汗外甥に器幣が贈られ、五年には夜落紇密礼遏が槖駝・名馬・珊瑚・琥珀を献じた。咸平四年、可汗王禄勝が曹万通を遣わし、玉勒名馬などを献じ、李継遷討伐への協力を申し出た。真宗は「継遷は凶悖で人神に見放された者。可汗の功業は計り知れない」と詔した。
- 大中祥符年間、夏州の萬子軍が回鶻を攻めたが伏兵に大敗した事跡、可汗夜落紇と趙徳明(西夏)の対立、汾陰祭祀への従祀、龜茲国王からの独峰駝・玉鞍勒などの献上が記される。天禧年間、夜落隔(歴代の可汗号)の死去と後継の可汗擁立、天聖年間の甘州夜落隔通順の入貢が続く。熙寧年間、神宗は使者に部族の兵力を問い「三十余万、うち兵可能は二十万」との答えを得た。李憲の遠征策(皇甫旦を使者に立てた失敗)や、宣和年間に回鶻使が陝西で密貿易を行い長期滞在する弊害から法で禁じた経緯が記される。