高昌国
- 高昌国は漢の車師前王の地で、地勢が高く敞(ひろ)いことから名づけられた。北魏の沮渠無諱が高昌太守を自称し、後に闞伯周が高昌王となったのが王号の始まり。唐貞観年間、侯君集がこれを平定し西州とした。安史の乱後独立し、回鶻の勢力が強いことから回鶻とも呼ばれる。
- 建隆三年、西州回鶻の阿都督らが朝貢。太平興国六年、王が「西州外生師子王阿厮蘭漢」と称し、太宗は供奉官王延徳・殿前承旨白勛を使者として派遣した。雍熙元年、王延徳が帰還し水程を詳細に記録した。夏州から玉亭鎮・黄羊平(黄羊を産す)・沙磧(水を運んで渡る)・都囉囉族(漢使に「打当」という贈答をする慣習)・茅女喎子族(羊皮の浮嚢で黄河を渡る)・六窠沙(槖駝でのみ通行可)・楼子山(無人の砂漠を日を頼りに進む)・臥梁劾特族・大蟲太子族(契丹と境を接し金銀器・馬乳酒を用いる)などを経て、伊州(漢人陳氏が唐開元以来数十世治める)・納職城・鬼谷口(用兵の祭祀で風を鎮める)などを経て高昌に至る詳細な旅程が記される。
- 高昌の地は南は于闐、西南は大食・波斯、西は西天(インド)に至り雪山葱嶺を越える数千里。雨がなく極めて暑く、住民は地下に穴居して暑を避ける。仏寺五十余区はすべて唐朝が額を賜ったもので、唐太宗・明皇の御札を蔵した楼もある。摩尼寺・波斯僧の寺もある。国内に南北突厥・大衆熨・小衆熨などの部族があり、人々は長寿で百余歳に及ぶという。師子王の避暑地北庭への訪問記も詳しく、六日で交河州、さらに雪の峠を越えて北庭に至る道中の様子、契丹使が高昌王に「漢使は謀反の下見に来た」と讒言した一件と、王延徳がこれを見破り契丹使の殺害を諌めて止めさせた逸話が記される。雍熙元年に帰京、景徳元年にも使者金延福が来貢した。