宋史卷四百八十三 列傳第二百四十二 荆南高氏

荆南(南平)の高氏一族。高季興が唐末に荆南節度使となって自立し、子の従誨、孫の保融・保朂・継冲と継承したが十国中もっとも弱小で、宋の湖南討伐を機に高継冲が土地を献じて帰順、三代五帥・四十余年で終わった。幕僚の孫光憲・梁延嗣もこの帰順に功があった。

年表(13件)

高保融

  • 高保融、字は徳長。その先祖は陜州峡石の人。祖父の高季興は唐末に荆南節度使となり、後梁・後唐を経て南平王に封じられ卒した。子の高従誨が継ぎ太傅・中書令に至った(『五代史』に伝あり)。従誨の子が保融で、後唐長興初年に蔭補により太子舎人となり緋を賜った。晋の天福中、検校司空に制授され内外諸軍を判し、まもなく節度副使に遷り、開運末に峡州刺史を領し、検校太傅にまで加えられた。
  • 漢初、従誨が卒すると保融は軍府事を権知し、起復検校太尉・同平章事・江陵尹・荆南節度・荆帰峡観察使に制授され、翰林使の郭允明が衣幣を賜った。乾祐二年(949年)検校太師兼侍中を加えられ、後周の広順初年に兼中書令を加えられ渤海郡王に封じられた。正衙の命使として礼部尚書の王易・副使刑部郎中の景範が冊命を発し、礼服・冠剣も賜られた。顕徳初年、南平王に進封。世宗の即位に伴い守中書令を加えられた。
  • 世宗の淮南征討に際し、保融は水軍数千を夏口に出して掎角となり、淮甸平定後には璽書で褒美し絹数万匹で軍を賞した。世宗が蜀征討を議した際、保融は舟師を率いて三峡から進むことを願い出た。顕徳六年、恭帝の即位に伴い守太保を加えられた。宋初、守太傅となり相次いで使者を送って貢献し、厚い恩顧を得た。この年八月に卒。年四十一。廃朝三日、儀鸞使の李継超が賻物を賜い、兵部尚書の李濤・兵部郎中の率汀が持節して太尉を冊贈、諡は正懿。
  • 保融は性が迂闊で緩慢、兵を統べ民を治める術策はすべて母弟の保朂に委ねられていた。子の継冲・継充のうち、継充は歸州刺史に至った。

高保朂

  • 保朂、字は省躬。従誨の第十子で保融の同母弟。晋の天福初年に漢州刺史を起家として領し、保融が政を継ぐと内外諸軍事を判した。後周の広順元年に検校太傅・荆南節度副使を加えられ、顕徳初年、保融の請により検校太尉・行軍司馬・寧江軍節度を加えられた。保融が卒すると保朂は軍府事を権知し、章を奉じて上聞したところ、太祖はただちに節度使を授けた。建隆二年(961年)、弟の保寅を遣わして入貢した。
  • 保融が紀南城の北で江水を堰き止め貯めた池「北海」があり、通行者を妨げていたが、太祖は保寅を通じてこれを決壊させ道路を開くよう諭した。保朂は幼くして病がちで体は痩せていたが、淫逸で節度がなく、日々娼妓を召して府署に集め、壮健な士卒に恣に戯れさせては姫妾とともに簾越しに観覧を楽しんだ。また台榭の造営を好み土木の工を極め、軍民は皆これを怨んだ。従事の孫光憲が切に諫めたが聞かなかった。三年十一月に卒。年三十九。廃朝二日、侍中を贈られ、御厨使の李光睿が賻祭した。保朂は幼少期から従誨に鍾愛され、盛怒の際でも保朂を見れば必ず穏やかに笑ったという。荆人はこれを「万事休」と呼んだ。保朂の立った後、藩政は弱まりわずか数ヶ月で国を失ったのも、また予兆であったという。

高継冲

  • 継冲、字は賛平。保融の長子。後周の顕徳六年に蔭により検校司空として荆南節度副使となる。建隆三年、保朂が病に伏すと継冲は節度副使として軍府事を権知し、保朂の卒後、四年正月に検校太保・江陵尹・荆南節度を制授された。
  • ちょうど湖南の張文表が叛き周保権が朝廷に救援を求めたため、江陵に水軍三千を潭州へ発するよう詔があり、継冲は親校の李景威に率いさせた。二月、慕容延釗・李処耘らが大軍を率いて至ると、継冲は牛酒を用意し軍を犒って城門を開いて延釗らを迎え入れ、客将の王昭済・蕭仁楷を遣わして表を奉じ土地を献じた。
  • 太祖は御厨使の郜岳に詔を持たせ安撫させ、枢密承旨の王仁贍を荆南都巡検使とし衣服・玉帯・器幣・鞍勒馬を齎させて継冲に賜った。継冲には馬歩都指揮使を授け、梁延嗣は復州防禦使、節度判官の孫光憲は黄州刺史、右都押衙の孫仲文は武勝軍節度副使、知進奏の鄭景玫は右驍衛将軍、王昭済は左領軍衛将軍、蕭仁楷は供奉官とされた。継冲は管内の芻糧・銭帛の数を上申し、さらに銭五万貫・絹五千匹・布五万匹を献じた。さらに支使の王崇範を都に遣わして金器五百両・銀器五千両・錦綺二百段・龍脳香十斤・錦繍帷幕二百事を貢いだ。
  • 三月、鞍轡庫使の翟光裔が官告・旌節を齎して継冲に賜り、あわせて参佐官吏を存問した。保融の兄弟・諸父もそれぞれ官を授けられた(江陵少尹の保紳を衛尉卿・節院使、保寅を将作監・内作坊使、左衙都将の保緒を鴻臚少卿、右衙都将の保節を司農少卿、合州刺史の従翊を右衛将軍、衙将の保遜を左監門衛将軍、巴州刺史の保衡を歸州刺史・知峡州事、保膺を本州刺史、衙将の従詵を右衙率府率、従譲を左清道率府率、従謙を左司禦率府率とし、王崇範を節度判官、高若拙を観察判官、梁守彬を江陵少尹、韋仲宣を掌書記、胡允脩を節度推官とし、州県官はそのまま留任、別に管内符印を賜った)。
  • 五月、保紳らが来朝し京城第一区をそれぞれ賜り、六月には王仁贍が軍府事を兼知した。この歳、郊祀にあたり継冲は入覲を求め十月に至京し、金銀器・錦帛・宝装弓剣・繍旗幟・象牙玉鞍勒等を献じ厚遇された。郊禋の後、継冲は徐州大都督府長史・武寧軍節度使・徐宿観察使に任じられ彭門に鎮すること十年近く、政治は僚佐に委ねられたが治まっていた。
  • 開宝六年(973年)卒。年三十一。廃朝二日、侍中を贈られ中使が葬事を護喪し官が給した。高季興が荆南・歸峡の地を有してから三代五帥、あわせて四十余年で継承された。

高保寅

  • 保寅、字は斉巽。晋の天福七年に蔭により太子舎人を授かり緋を賜った。兄の保融が封を継ぐと節院使を奏署され金紫を賜った。宋興ののち、保朂の襲封に際し保寅を入覲させると、太祖は便殿で対面させ掌書記に任じ帰らせ、保寅は保朂に「真主が出世し天下が統一されようとしている。兄は率先して国土を朝廷に奉じ帰順すべきであり、他人が富貴を得るための資となってはならない」と語ったが、保朂は聞き入れなかった。
  • 王師が武陵討伐に向かった際、道は荆渚を経由したため、保寅は牛酒を奉じ軍を犒った。太祖はこれを嘉し駅伝で都に召し寄せ、将作監・内作坊使を授け邸第一区を賜り、まもなく宿州の知州とした。乾徳四年(966年)父の喪に服したが起復により少府監に転じ、開宝五年(972年)懐州の知州となり、司農・衛尉の二卿を歴任した。この州はもと河陽に隷していたが、当時趙普が帥であり保寅と元来不仲であったため事はしばしば抑制された。保寅は心穏やかでなく手ずから支郡制の廃止を上疏し、詔されてこれが従われた。また西川諸州都巡検使となり光禄卿に改められ、同・汝二州の知州を歴任し光化軍に改められて卒した。年六十八。廃朝、賻銭十万。
  • かつて保寅が懐州にあった際、蘇易簡・王欽若はともに若くして学び始めていた同州の従事であり、光化軍にあった際は張士遜がその邑人であった。保寅は一見してみな抜擢し遠大な将来を期待したため、識者はその人を見る目を称賛した。子の輔政・輔之・輔堯・輔国はともに進士に及第。輔政は祕書丞、輔之は太常丞に至った。

孫光憲

  • 孫光憲、字は孟文。陵州貴平の人。世々農業を営んでいたが光憲は若くして学を好み、荆渚に遊び高従誨に見出されて重んじられ従事に任じられた。保融・継冲の三代に仕え幕府にあり、累官して検校祕書監兼御史大夫に至り金紫を賜った。
  • 慕容延釗らが朗州の乱の救援に荆南を借道した際、継冲が門を開いて延釗を迎え入れると、光憲は継冲に三州の地を献じるよう勧めた。太祖はこれを聞いて大いに悦び、光憲に黄州刺史を授け賚を加えた。郡にあっても治声があった。乾徳六年(968年)卒。時に宰相に光憲を学士に薦めようとする者があったが、召される前に卒した。
  • 光憲は経史に博通し、勤学して書を数千巻集め、自ら書写し老いても校讐を怠らなかった。著作を好み、自ら葆光子と号した。著書に『荆台集』三十巻、『鞏湖編玩』三巻、『筆傭集』三巻、『橘斎集』二巻、『北夢瑣言』三十巻、『蚕書』二巻がある。また『続通歴』を撰し紀事に多く失実があったため、太平興国初年に詔でこれを焼却させた。子の謂・讜はともに進士に及第した。

梁延嗣

  • 梁延嗣は京兆長安の人。若くして高季興に仕えかなり委任され、検校司空・綿州刺史を授かり衙内馬歩軍都指揮使を充て、四代の帥に仕え忠義をもって人に称された。継冲の納土に際して延嗣もこれを勧め、荆州の水軍を率いて慕容延釗に従い越え戦い、太祖はこれを嘉し復州防禦使・湖南前軍歩軍都指揮使兼排陣使を授けた。のち郊礼に際し復州から入朝し、太祖はこれを慰撫して「高氏が富貴を失わずに済んだのはそなたの力だ」と語り、濠州防禦使に改められ善政があり詔書で褒美された。延嗣は書を好み士人と交わり、かつて突然の病にかかり城隍神に祈禱すると、その夜、神人が九九の数を告げる夢を見て病はまもなく癒えたという。開宝九年(976年)卒。年八十一。