宋史卷四百八十 列傳第二百三十九 昱

  • 字は就之、忠獻王佐の長子。佐の薨後まだ幼かったため国人は倧を立て、昱は咸寧大安二宮使とされた。俶の襲国に伴い秀州刺史に承制授与、太祖受禅時に入貢し江南の使者と後苑で射を競い、江南使が的中させ昱に解かせようとすると自ら射抜いて玉帯を賜った。蜀平定の祝賀にも赴き台州刺史となり、俶が福州を得ると昱に守らせた。江南討伐時は東面水陸行営応援使として俶に従い入朝、白州刺史を授かった。学を好み蔵書を多く持ち吟詠を好み中朝の卿大夫と多く唱酬し、沙門賛寧と竹の逸話を語り合い100余条を集めて『竹譜』3巻を編んだ。『太平興国録』を献じ台省の官への転任を求め、召試の制誥3篇を経て祕書監判尚書都省となり、新築の省署の記を撰して奏御、鍾繇・王羲之の墨跡8巻も献じ褒められた。宋州知事から工部侍郎、壽・泗・宿の3州を歴任したが治績はなく、至道中の郊祀での加秩を太宗は「昱は貴家の子で素行が悪い、丞郎は不適」として郢州団練使にとどめた。咸平2年、入朝を上表したが病で陛見できず57歳で卒した。昱は筆札に優れ尺牘を能くし太祖も愛でて御書の金花扇と急就章を賜った。聡敏で碁を覆せるほどの才があり琴・画・飲酒(一斗余を過ぎても乱れず)を能くし諧謔を好んだが、生涯で交友を裏切ったことはなかったという。集20巻あるが、貪欲で放埓な素行から名節を称えられることはなかった。子は百余人あり、その中で涉が雍熙中に進士及第、絳が内殿承制閤門祗候に至り諸郡で幹力を評された。俶の一族には他に台州刺史仰之の子昭序(字は著明。好学で蔵書多く自ら書写し、通利軍知事として勤勉に聞こえた)、衢州刺史偓の子昭度(字は九齡。俊敏で詩に長け供奉官に至り、蘇易簡が集10巻の序を撰した)がいる。