宋史卷四百八十 列傳第二百三十九 孫承祐

孫承祐

  • 杭州銭塘の人。俶がその姉を妃に迎えたことから要職に抜擢され、浙江東道塩鉄副使・鎮海鎮東両軍節度副使知靜海軍節度事に累遷した。開宝初、俶の子惟濬の入貢に随行し光禄大夫検校太保鎮東鎮海等軍行営司馬を授かり、俶は私に中呉軍節度を署した。7年再度の入貢で襲衣・玉帯・鞍勒馬・黄金器500両・銀器3000両・雑綵5000匹を賜り俶への諭旨も託された。王師の渡江に際し内客省使丁德裕が歩騎千を率い俶に德裕と合流し常・潤を攻めさせ、承祐は俶に従い毘陵を落とし功が大きく、中呉軍は平江軍と改称され承祐が節度を真授された。太平興国中、俶の来朝と献土に伴い泰寧軍節度使に徙り、5年太原親征に従い大名の留守を守った。雍熙2年滑州知事に改まり数か月で卒し太子太師を贈られ内使が葬儀を護った。承祐は浙右で権勢を恃み奢侈を極め、一度の宴で千を数える動物を屠り、常の膳でも数十品を並べ、居室では龍脳を日々2両焚くほどであった。北征に従軍した際も槖駞に大斛の水を背負わせ魚を飼って随行させ、幽州南村に至った際、日暮れて西京留守石守信とその子駙馬都尉保吉ら近臣数人がまだ朝食を摂っていなかったところ承祐の宿所へ招き膾魚をふるまい水陸の珍味を尽くしたため人々は皆驚いたという。承祐は若い頃、蓍草を1本増して授かる夢を見て「大衍の数五十、その用四十九、これに一を加えるとは、私の寿命はここまでか」と語ったが、まさに50歳で卒した。子の誘は駕部郎中から淮南節度行軍司馬として出た。