宋史卷四百八十 列傳第二百三十九 惟濟

惟濟

  • 字は巌夫、7歳のとき俶が漢南王に封ぜられた際に本府元従指揮使を補され諸衞将軍から恩州刺史・東染院使、封州刺史を真授された。真宗の汾陰祀還幸の際、苑中で射を命じられ的を射抜いた故事(刺史は射を解かぬ例)に対し帝は特に解かせ襲衣・金帯を賜った。その後試郡を望み絳州知事となり、桑を盗んだ民が自ら腕を傷つけて桑主を誣告した事件を、惟濟は盗人の食事の様子(左手で匙を使う)から右手で傷を負わせたはずと見抜き自白させ、真宗は宰相向敏中に「惟濟は郡守として鋭い判断を示した、将来良吏になろう」と評した。潞州に移った際、外敵来襲の誤報で民が城中へ殺到し将棋倒しになったが、惟濟は従騎を減らし従容と巡視して民を落ち着かせた。永州団練使から成德軍知事に遷り、仁宗即位後検校司空を加えられた。偽の白金で緡銭を得た詐欺事件では被害者に「盗まれたと吹聴し高額の懸賞を出させれば、質入れした者が自ら現れる」と助言し的中させた。吉州防禦使として留任、䖍州観察使、定州知事では前妻の子に薄情な継母が銅銭で腕を焼く虐待をした事件を、惟濟は生んだ我が子を雪の中に置いて凍死させ、その残酷さを暴いた。武昌軍節度観察留後から保靜軍留後に改まり、賓客をもてなす豪奢な宴で家産を使い果たし、帝から白金2千両を賜っても公使銭700余万の借財を残して卒した。平江節度使を贈られ「宣惠」と諡され、葬儀に銭200万・絹千匹が贈られた。『玉季集』20巻がある。惟濟は吏才に富み部下を厳しく統率したが性は苛烈で、行く先々で獄を満たし重罪人を斬り、あるいは手足を断ち肝胆を探るなど威を示す残虐な統治で知られ、それを見る者は動揺したが惟濟は平然としていたという。