宋史卷四百七十九 列傳第二百三十八 歐陽逈

歐陽逈

  • 益州華陽の人。父の珏は通泉令。逈は若くして王衍に仕え中書舎人となり、後唐同光中の蜀平定後は洛陽で秦州従事に補され、知祥の成都鎮守に伴い再び蜀に入り、知祥の僭号後は中書舎人となった。広政12年翰林学士、翌年知貢挙判太常寺、礼部侍郎陵州刺史から吏部侍郎承旨を経て24年門下侍郎兼戸部尚書平章事監修国史となった。白居易の諷諫詩に倣い50篇を献じ賞された。昶に従い帰朝後右散騎常侍から翰林学士・左散騎常侍に転じ、嶺南平定時に南海祭祀の使者に推されたが病と称して出仕せず太祖の怒りを買い分司西京に降された。開宝4年76歳で卒し工部尚書を贈られた。逈は坦率で羈束を嫌い長笛を能くし、太祖が偏殿で吹奏させたことがあり、御史中丞劉温叟がこれを聞いて「禁署の職は誥命を掌るもの、伶人の真似事は不適切」と諫めると、太祖は「かつて孟昶の君臣が声楽に溺れたと聞き、宰相までこの技に凝っていたためこそ滅ぼされたと悟った、逈を召したのはその噂の真偽を確かめるためだ」と答え温叟を得心させた。逈は詩歌を好んだが誥命の起草には長じなかった。ただ蜀の卿相が奢靡を競う中で、逈だけは質素を守ったと称された。