宋史卷四百七十九 列傳第二百三十八 玄喆

西蜀孟氏の孟昶の子・玄喆(字は遵聖)。幼くして聡悟で隷書を能くし、太子に立てられ宋の来襲時には元帥として出陣したが、劒門陥落を聞いて軍を棄てて逃げ帰り、父とともに宋に降った。降伏後は宋に仕えて貝州・定州・滑州などを歴任し、太原平定・幽州征伐にも従軍して滕国公に封ぜられた。

年表(6件)

玄喆・玄珏

  • 玄喆は字を遵聖といい、幼くして聡悟、隷書を能くし14歳で秦王に僭封され検校太尉同平章事判六軍諸衞事となった。姚崇の口箴を自書し石に刻んだこともあった。広政21年武徳軍節度、24年に兼侍中、25年に皇太子となり、宋師が至ると元帥として精鋭1万余を率いたが、旗印は錦繍で飾られ、微雨に濡れるのを嫌って一時解いた旌旗が数千も倒れて杠に絡んだのを人々は不吉とみなした。剣門陥落を聞くと東川へ逃げ、数日後に軍を棄てて逃げ帰り昶と同日に降伏を朝廷に伝えた。検校太尉泰寧軍節度を授かり、昶の卒去に際し羊500口・酒500壺を賜り、玄喆は馬200匹と白玉水晶の鞍勒を献じた。貝州に移鎮し10余年治績を挙げ、太平興国初に定州へ移り、3年開府儀同三司を加えられ、4年太原平定・幽州征伐に従い、契丹の侵攻を破って滕国公に封ぜられ左龍武軍統軍・判右金吾衞仗となった。まもなく滑州知事、淳化初に瀕淮の小郡へ転じ滁州知事として卒した(55歳、侍中を追贈)。貝州在任中、民の納税に商算を課し余剰を留使の用に充てていたことが景徳中に問題視され改められた。子は15人おり隆記・隆詁・隆說・隆詮が進士に及第した。
  • 玄珏は初め王に封ぜられ玄喆と同日に検校太保を加えられた。幼くして端敏で昶の弓術に感心され銭30万を賜ったが、教授の陳鄂に譲った。鄂は李瀚『蒙求』・『高測韻対』に倣い『四庫韻対』40巻を著し玄珏はこれを評価した。広政23年閬州保寧軍節度、後検校太傅に進み帰朝後千牛衞上将軍、乾徳5年右神武統軍、太平興国9年宋・曹・兖・鄆都廵検、淳化元年復び右神武統軍、6月滑州知事、3年卒。