出仕から南京留守まで
- 杜充は字を公美、相の人。功名を好み残忍で殺を好んだが、謀略には乏しかった。紹聖間に進士に及第し考功郎・光禄少卿を経て知滄州となる。靖康初、集英殿修撰を加えられ知滄州に復す。金軍南侵の際、郡中の燕人来帰者を敵の内応者と疑って皆殺しにした。
- 建炎元年、天章閣待制・北京留守、樞密直学士に進む。提刑の郭永が三策を献じたが充は聞き入れず、永は「志があっても才がなく、名を好んで実がなく、驕蹇自用の者に大任を委ねてはよい結果を生まない」と誹った。二年、宗澤が卒すと充がその跡を継ぎ開封尹を兼ねる。三年、戸部尚書兼侍読として召されるが至らず、資政殿学士・京東西路節制・京城留守に留められ、まもなく知宣武軍節度使。七月、同知樞密院として召還され尚書右僕射同平章事・御営使を拝命。
江淮宣撫と金への降伏
- 宗澤の豪傑結集による二帝迎還の計は、澤の死後、充の撫御の未熟さで両河の忠義の士が離反した。留守判官の宗穎はその失を疏したが、朝廷は充を威望ありとして重用、呂頤浩・張浚も薦めたため江淮宣撫使に任じられ建康に留められた。張俊が謁見を待つ間に怒って使者を戮すなど、諸将は充を恐れて服したが、劉光世・韓世忠は充の厳酷を嫌った。
- 高宗が西浙に幸そうとした際、韓世忠を太平に、王燮を常州に配し、充を江淮宣撫使として建康に留め諸将を庇護させた。金軍の渡江に対し裨将の王民・張超が防戦するも金軍は夜に数十舟で長江を渡り上陸、充は統制官の陳淬に岳飛以下二万を率いさせて馬家渡で邀撃させたが淬は戦没し王燮は逃げ、充の軍は潰えて金軍は建康を陥落させた。充は真州へ渡江して逃れた。
- 充はかねて諸将を厳しく処断していたため恨みを買っており、諸将は充の失敗を見て見捨てた。充は北の泗州の劉位・徐州の趙立と連合して敵の帰路を断とうとしたが、内侍の任源が親札を携えて至った際も詭弁で言い逃れた。真州長蘆寺の守臣・向子忞は充に通泰から浙への逃避行を勧めたが充は異心を抱いており従わなかった。京畿提刑の凌唐佐と親しかった南京守臣の孟庾が金に降っており、完顔宗弼(兀朮)は充に「降れば張邦昌の故事のように中原に封じる」と誘い、充はついに金に叛降した。
金での晩年
- この知らせに高宗は「朕は充を薄遇していない、なぜこのようなことになったのか」と輔臣に語り、充の爵を削り子の嵩・巌・崑の壻の韓汝惟を広州に徙した。その冬、充は雲中に至り尼堪に軽んじられたが、後に知相州に任じられた。猜疑深く威を張って同僚と協調せず、紹興二年、孫が徙された場所から逃げ帰る事件があり、副の胡景山が「充が密かに朝廷と通じている」と誣告、尼堪は充を拷問にかけたが屈せず釈放され、「南朝に帰りたいか」と問われて「元帥(尼堪)を敢えて裏切りません」と答えられ嘲笑された。
- 七年、燕京三司使に任じられ、八年、同僉書燕京行台尚書省事、九年、行台右丞相に遷り、十一年、和議が成った年に充は死んだ。