寧宗擁立の功
- 韓侂胄は字を節夫、魏忠獻王・韓琦の曾孫。父の韓誠は高宗憲聖慈烈皇后の妹を娶り、寶寧軍承宣使に至った。侂胄は父の任により官に入り、閤門祗候・宣賛舎人・帯御器械を歴任、淳熙末、汝州防禦使・知閤門事となった。孝宗崩御後、光宗は疾で喪に服せず中外は動揺、趙汝愚は皇子・嘉王の擁立を策した。
- 憲聖太后が慈福宮にいたため、汝愚は侂胄が慈福内侍の張宗尹と親しいことを利用し、宗尹を介して密かに太后に議を上啓させた。侂胄は宮門で二度断られ彷徨したが、重華宮提挙の闕禮に問われて事情を明かすと、禮は太后に懇切に伝え、太后はこれを可とし、侂胄が急ぎ汝愚に伝えたのは既に夕刻であった。汝愚は殿帥の郭杲に兵で南北内を守らせ、翌日、太后が喪次に垂簾し嘉王の即位を宣した。
定策の恩賞を巡る不満と偽学の禁
- 寧宗即位後、侂胄は定策の功への恩賞を望んだが、汝愚は「吾は宗臣、汝は外戚、功を言うべきではない。爪牙の臣にこそ賞を与えるべき」として郭杲を節鉞に、侂胄は宜州観察使兼樞密都承旨に留めた。侂胄は不満を抱いたが、詔旨伝達の任にあって次第に帝に親幸され、密かに威福を弄び始めた。朱熹は汝愚に「厚く賞して疎遠にすべき」と進言したが汝愚は意に介さず、右正言の黄度は侂胄弾劾を図るも謀が漏れて左遷された。
- 朱熹が侂胄の姦を訴えると、侂胄は優人に大儒の姿を戯れさせて熹を怒らせ、熹は去った。彭龜年が熹の留任と侂胄の逐斥を求めるが、龜年自身が地方に出された。侂胄は保寧軍承宣使・佑神観提挙に進み、抑賞への怨みから汝愚への恨みを深めた。かつて侂胄と共に知閤門事を務めた霅川の劉㢸は、内禅の議で汝愚だけが侂胄と密議したことに不平を抱き、侂胄に「趙相(汝愚)が大功を専らにすれば君は節度どころか嶺海に行く羽目になる」と焚きつけ、台諫を御筆で動かす策を授けた。
- 侂胄は内批で劉徳秀を監察御史、楊大法を殿中侍御史に任じ、呉獵を罷免して劉三傑に代え、言路を党で固めた。京鏜と謀って汝愚を「宗姓を誣いて社稷を危くする」との名目で逐うことを決め、慶元元年、李沐を右正言に用いて汝愚罷免の奏を上げさせた。徐誼・朱熹・彭龜年・黄度・李祥・楊簡・呂祖儉らも次々処分され、太学生の楊宏中ら六人(張衜・徐範・蔣傅・林仲麟・周端朝)も上書して処罰された。
偽学の禁と権勢の伸張
- 何澹・胡紘を言官に用い「偽学」の名目で汝愚・朱熹門下を根絶やしにし、汝愚は永州に謫され暴薨、誼は南安軍に謫された。留正は都堂で侂胄を辱めた過去から劉徳秀に弾劾され罷斥、吏部尚書の葉翥は偽学批判の疏を求めたが侍郎の倪思が従わず、翥は執政に抜擢され思は免官された。侂胄は開府儀同三司に進み、台諫は清議を憚りつつも偽学攻撃を続け、陳賈・沈継祖を用いて熹に十の罪を誣告し落職・罷祠とした。
- 劉三傑が「偽党は今や逆党に変じた」と対すると侂胄は大喜びし、坐して処罰された者は五十九人。王沇の献言で偽学者の姓名を省部に籍記させ、姚愈は禁令の強化を請うなど便乗が相次いだ。慶元四年、侂胄は少保・豫国公に進む。蔡璉が汝愚定策時の異謀を告発し、彭龜年・曽三聘・徐誼・沈有開を大理に下そうとしたが張仲蘩の抵抗で止まった。その年、太保・平原郡王に、六年、太傅に進む。
- 婺州布衣の呂祖泰が「道学の禁は誤りであり侂胄を誅せよ」と上書すると激怒され決杖流欽州に処された。周必大を植党の元凶として貶した。禍は本、侂胄の意によるが謀は京鏜に始まり、鏜が死すと侂胄も次第に前非を悔い、張孝伯の「党禁を弛めなければ報復の禍を招く」との進言を容れ、汝愚・朱熹の職名を復し留正・周必大も秩を復し、偽党の禁は緩んだ。
開禧用兵と失敗
- 嘉泰三年、太師を拝命し惠民局を監す。夏允中の平章国政の請を辞退しつつも受け入れ、士大夫の心を勢利で操った。薛叔似・辛棄疾・陳謙らは起用されたが、陳自強は侂胄の童子師出身から相位に至り、蘇師旦・周筠は厮役出身ながら国政に参与し、羣小が阿附して勢焔を強めた。侂胄の望むことに三省も逆らえなかった。
- 蓋世の功名を立てるべしとの声に応じ恢復論が興り、興州都統制の呉曦への疑念があったが侂胄は聞き入れなかった。安豊守の厲仲方の献策、辛棄疾の「敵国は必ず乱れ亡ぶ、元老大臣を配し応変の計を立てるべき」との言が重なり、開禧改元の年、進士の毛自知が「機に乗じて中原を定めるべき」と対策で述べると侂胄は喜んだ。楊輔・傅伯成が用兵不可を訴えて罪せられ、武学生の華岳は侂胄・師旦・周筠の誅殺を求め、諫議大夫の李大異も開辺の停止を訴えたが下獄され罷免された。
- 陳自強の援用で侂胄は平章軍国事を兼ね、三日に一朝、都堂で丞相の上に序班した。師旦を安遠軍節度使とし、私第に機速房を置き御筆を偽作して将帥の升黜を専断した。薛叔似・鄧友龍・程松・呉曦を各路の宣撫使・宣諭使に任じ、鎮江の陳孝廣が泗州・虹県を、江州の許進が新息県を、光州の孫成が褒信県を復すなど緒戦は捷を得たが、皇甫斌が唐州で、郭倬・李汝翼が宿州で敗れ、統制の田俊邁を敵に渡す事態となった。
軍事的破綻と誅殺
- 鄧友龍が罷免され丘崈が宣撫使に代わった。侂胄は李璧の言で師旦の過失を悟り、師旦を韶州に、郭倬・李汝翼・王大節・李爽を嶺南に流した。金は淮を渡って廬・和・真・楊を取り安豐・濠に迫り棗陽に至った。丘崈は僉書樞密院事として督視、侂胄は家財二十万を献じて軍を助けつつ丘崈に和平交渉を試みさせたが金の態度は倨傲で要求は多かった。招撫使の郭倪が六合で敗れ、蜀では呉曦が金に降り蜀王を称する事態となった。
- 丘崈は侂胄の責任回避的言動に不満を示し罷免された。安丙・楊巨源が呉曦を誅殺すると、侂胄は方信孺を金に遣わし和議を求めたが、金は「首謀の臣を縛送せよ」と要求、方信孺は帰朝してもこれを直接言えず、侂胄が問い詰めて初めて明かされると激怒し和議は頓挫した。辛棄疾を樞密都承旨に任じたが間もなく病死、趙淳を江淮制置使として用兵を再開したが、蜀口・漢淮の民の犠牲と国力の疲弊は深刻であった。
- 礼部侍郎の史彌逺は資善堂翊善を兼ね、密かに侂胄誅殺を謀った。皇子榮王の上奏と楊皇后の後押しで密旨を得た彌逺は参知政事の錢象祖・李璧に伝え、御筆で「侂胄は久しく国柄を握り軽々に兵端を開いて南北の生霊を殺傷した、平章軍国事を罷め外の宮観に」「陳自強も阿附充位で国事を顧みない、右丞相を罷め即日国門を出よ」と発せられた。夏震が兵三百で象祖を防護、璧は「事が漏れれば防げなくなる」として審議を待たずに実行、侂胄が入朝する途上、震が呵止し玉津園側で殺害された。
- 蘇師旦は広東で斬られ、嘉定元年、金が侂胄の首を函に納めて送るよう求め、臨安府が棺を斵って首を取り送った。侂胄は十四年権勢を振るい、宗廟を見下ろす園を築いて孝宗ゆかりの地に居し、老宮人は涙を流した。四方から頌が寄せられ「伊尹・霍光、旦・奭に劣らぬ勲」と称える者もあり、余嚞は九錫を、趙師&KR0759;は平原郡王府の官属設置を請うたが、侂胄は当然のように受け入れた。妾の張・譚・王・陳の四夫人も郡国夫人号を得たが誅殺後は杖罰・配流となった。
- 呉琚は「帝は元々侂胄を留める意はなく、一人が諫言すれば容易に去らせられただろう」と語ったが、一時の台諫・執政大臣が党与となったことがその悪を助長し大僇に至らせた。開禧の用兵は帝の本意ではなく、侂胄の死後、帝は「恢復は美事だが力量が及ばなかっただけ」と述べた。侂胄は憲聖呉皇后の姪を娶ったが子がなく、魯王の子・㣲を後継としたが、誅殺後は削籍され沙門島に流された。