宋史卷四百七十二 列傳第二百三十一 張覺

平州での自立と抗争

  • 張覚は平州義豐の人。遼国で進士に及第し遼興軍節度副使となる。鎮民が節度使の蕭迪里を殺した際、乱を鎮め州人の推戴を受けて州事を管掌。燕王淳が死ぬと遼の滅亡を悟り丁壮五万・馬千匹を集めて備えた。蕭后が時立愛を派遣したが覚は受け入れず、金人が燕に入ると覚の情勢を旧遼臣の康公弼に問い、公弼は「彼は何もできない、疑いなきよう扱え」と述べて臨海軍節度使・知平州とされた。
  • 遼相の左企弓らが東尼堪(斡離不)に帰そうとした際、覚を先んじて捕らえようとの計画があったが、公弼が使者となり状況を探ると、覚は「契丹八路は皆陥ちたが平州だけが残り、蕭幹を防ぐために甲を脱いでいないだけだ」と述べて公弼に賄賂を厚くし、公弼はこれを金人に伝え信じさせた。平州は南京に昇格し、覚は同中書門下平章事に加えられた。企弓・公弼らは東に遷る際、燕の民は流離し、覚を頼って企弓らの責任を訴えた。
  • 覚は僚属に議らせ「天祚が松漠で復振していると聞く。金人が山西に急ぐのは契丹の後患を恐れてのこと。義を掲げ故主を迎え企弓らの罪を殺せば、金への援護が絶えて南朝も受け入れよう」との意見を得て、翰林学士の李石にも同意を得て企弓ら四人を殺害し保大三年と称し、天祚の像を庁事に掲げて事あるごとに諮り、燕人に「女真は讐だ、この主に背けるか」と説いた。
  • 石は名を安弼と改め、故三司使の高党と共に燕山の王安中に「平州は形勝の地で覚は文武全才、我らの用となれば王室の屏翰となろう」と説き、安中は具奏して支持を得たが、徽宗は詹度への手札で「金国との盟約は重い、覚を討たなかったのは兵が関中にあったため。今後は密かに覊縻するに留めよ」と慎重姿勢を示した。宣和五年六月、覚は「金虜は燕京の富家巨室を徙し空城を残した、大朝(宋)に頼るほかない」と安撫司に書を送り、掌書記の張鈞・参謀の張敦固を遣わして帰順の意を示した。
  • 金は棟摩国王に三千騎を与えて討たせたが、覚は営州で迎撃し金軍は退いた。覚は大捷と偽って朝廷に報告、平州は泰寧軍に建てられ覚は節度使に、安弼・鈞・敦固は徽猷閣待制に加えられた。詔命が至ると覚は喜んで遠くまで出迎えたが、金軍の襲来を察知し帰還できず、弟と共に詔勅を持って燕に奔った。母妻は営州で捕らえられ、弟は投降して詔勅を献じた。金は平州を包囲し、覚の従弟・姪は固守したが、州民が数千潰囲して降り、三州を平定した金は覚の引き渡しを迫った。
  • 王安中は替え玉を斬って偽ったが金は見破り、覚は王宣撫の甲仗庫に匿われていたが「与えねば我が兵で取る」と迫られ、安中はやむなく覚を差し出し斬らせた。覚の首は函に納められ金に送られ、燕の降将・常勝軍は涙を流した。郭薬師は「もし私を要求されたらどうするのか」と語り、これより以後の解体・戦端に繋がったという。

郭薬師(張覚附)――常勝軍の統率と裏切り

  • 郭薬師は渤海鐡州の人。遼の滅亡に際し燕王淳が遼東の飢民を募って女真への怨みを晴らす兵とし「怨軍」と名付け、薬師はその渠魁となった。二営の叛乱を鎮圧し、蕭幹は薬師・張令徽・劉舜仁・甄五臣を将として四営に編成、燕王淳が号を建てると怨軍を常勝軍と改め、薬師は諸衛上将軍・涿州留守に抜擢された。
  • 淳が死に蕭幹が国を専らにすると、宣和四年九月、薬師は所部八千を率い涿州・易州を挙げて宋に帰順、恩州観察使に任じられた。宋の劉延慶と蕭幹軍が盧溝で対峙した際、薬師の献策で夜半に渡河・急襲し迎春門を奪ったが、契丹雑虜を殺しすぎて燕人の民心を失い、蕭后への降伏勧告も失敗、三市の戦いで敗れて還ったが安遠軍承宣使に進んだ。武泰軍節度使・検校少保・同知燕山府と累進、入朝して徽宗の厚遇を受けた。
  • 徽宗の前で泣いて忠誠を誓い、天祚を差し出すよう求められると「天祚は故主であり、故主に背くことはできない、他の者に任せてほしい」と涙を流して答え、帝はこれを忠と見て珠袍・金盆を賜った。蕭幹の侵攻を破り耶律徳光の尊号宝剣を得るなどの功で検校太傅に進む。
  • 王安中・詹度と地位を巡って対立し、詹度は河間の蔡靖と交代したが、薬師は靖にも重んじられつつ横暴を増した。太尉を拝命し召しに応じず、童貫が視察に赴くと兵の閲兵で威を示した。金使の往来でも薬師の兵に道を譲るほど威名は高まったが、告発が相次いでも取り上げられなかった。宣和七年十二月、詹度は「薬師は逆節あり凶横甚だしく金と通じている」と警告したが、間もなく金軍が檀州・薊州を破って玉田に至った。
  • 蔡靖が薬師・張令徽・劉舜仁に出撃を命じるが令徽は逃げ帰り、薬師は靖に降伏を勧めたが靖は拒み自刃しようとした。薬師はこれを止め使者共々監禁、斡里雅布が至ると軍官を率い迎え投降し、南征に加わった。金軍が慶源に至り徽宗の内禅を聞いて回軍を考えた際、薬師は「南朝はまだ備えがないだろう」と進言、京城への進撃と宝器・服玩の掠奪は薬師の先導によるものであった。