燕雲攻略策の献策
- 趙良嗣は本燕人で、馬植といい代々遼国の大族に仕え光禄卿に至ったが行いが汚れて人に齒せられなかった。政和初、童貫が使者として盧溝を通る際、馬植は夜に貫の侍史を訪ね「滅燕の策あり」と自ら申し出、貫はこれを聞いて奇才と認め連れ帰り姓名を李良嗣と改めさせて朝廷に薦めた。
- 良嗣は「女真は遼を骨髄まで恨み天祚は荒淫失道している。本朝が登萊から海を渡って使者を送り女真と結び遼を挟撃すれば、その国は図れる」と献策。議者は祖宗以来商賈往来を禁じてきた海路を今更開くことに反対したが、徽宗は召見して由来を問い、良嗣は「遼は必ず亡ぶ、陛下は旧民の苦しみを念じ中国の旧疆を復すべく天譴を代行すれば、王師が出れば壺漿して迎えられるだろう。もし女真が先に事を成せば後手に回る」と答え、帝はこれを納れて趙姓を賜い秘書丞とした。
- 燕雲攻略の議はこれより始まり、直龍図閣・提点萬寿観・右文殿修撰に進む。宣和二年、金国に使いして金主阿骨打に会い燕雲攻略を議す。使者を六、七度往来させ金との交渉に尽力、燕山を得た後は延康殿学士・提挙上清宮・光祿大夫に進んだ。
- 良嗣はかつて燕中の豪士の劉範・李奭・族兄の柔吉と義を結び、幽薊を奪取して朝廷に帰す誓いを北極祠で立て、成功の暁には冠を掛けて致仕すると約束していたと語り、致仕を三たび上表したが許されなかった。朝廷が張覚の投降を受け入れる際、良嗣は「金国との盟に反する」と強く反対したが聴かれず、職を五階削られた。靖康元年四月、御史の胡舜陟が「辺患を結成し契丹百年の好を破り金の侵陵を招いた」として市に晒すべきと弾劾、良嗣は既に柳州に流されていたが、広西転運副使の李昇之がその首を梟し、妻子は萬安軍に徙された。