宋史卷四百七十 列傳第二百二十九 姜特立

太子側近から寧宗朝の顕栄まで

  • 姜特立、字は邦傑、麗水の人。父の綬恩により承信郎に補せられ、淳熙中、累進して福建路兵馬副都監に至った。海賊の姜大獠が泉南を寇した際、特立は一艘の船で先に進みこれを擒えた。帥臣の趙汝愚が朝廷に薦め、召見の際に自作の詩百篇を献じ、閤門舎人を除せられ太子宮左右春坊を充て皇孫平陽王(後の寧宗)の伴読を兼ね、これにより太子に幸を得た。
  • 太子が即位すると知閤門事を除せられ、譙熙載とともに春坊の旧人として用事し、恩を恃んで憚るところがなかった。当時の人々は「曽・龍が再び現れた」と言った。留正が右相となり執政にまだ欠員があった頃、特立はある日正に「帝は丞相の在位が久しいことから左揆に遷らせようとし、二尚書の中から一人を執政に選ぼうとしている、誰がよいか」と語った。翌日、正は特立の権を招き賄を納れる状を論じ、職を奪って外祠を与えさせた。
  • 帝はこれを念じ、再び浙東馬歩軍副総管を除し、詔により銭二千緡を行装として賜った。正は唐憲宗が吐突承璀を召した故事を引いて相を罷めることを乞うたが許されなかった。正は再び「臣と特立は勢い両立しがたい」と言うと、帝は「命はすでに発せられている、私は反覆しない、卿は自ら処すべきだ」と答えた。正は国門の外で待罪したが帝は再び召さず、特立もまた至らなかった。
  • 寧宗が禅を受けると、特立は和州防禦使に遷り再び祠を奉じ、まもなく慶遠軍節度使を拝して卒した。熙載もまた平陽邸の伴読を務め、累官して忠州防禦使・知閤門事に至り、紹熙中卒した。特立に比べれば頗る廉勤であった。
  • 熙載の子の令雍は恩により承信郎・平陽郡王府幹辦に補せられ、まもなく王府内知客を充てた。少しく才があり、王はかつて春秋の褒貶や斉宣王が牛を易えた事、秦穆公の悔過の事を論じたところ、令雍はすぐに三篇の詩を作って献じ、王は大いにこれを愛重した。即位に及び知閤門事を除せられ、累進して揚州承宣使に至り、事を謝して保成軍節度使を拝した。初めに邸第を賜わった際、帝は自ら「依光」の二字を書して賜り、この時に至り再び「得閑知止」の四字を書してその堂の名とした。宝璽が帰った際、覃恩により検校少保に進み、さらに太尉に転じて致仕し、卒すると開府儀同三司を贈られた。