序(姦臣傳を立てる趣旨)
- 易に「陽卦は陰多く、陰卦は陽多し」とあるように、君子が少なくとも用事すればその象は陰となり、小人が多くとも君子が用事すればその象は陽となる。宋初、五星が奎宿に聚まったのは人材が多く出る兆しとされたが、宋の世を通じて賢哲も多かった一方、姦邪もまた多かった。
- 君子が政を秉り小人が命に聴う盛時には患いは少なく、衰えて小人が志を得ると狡謀を逞しくして上聴を壅ぎ、国是を変易し、忠直の者を賊虐して善良な者を屏棄する。君子は在野にあって救う術がなく、禍乱に至る。国家を有つ者は正邪の弁を慎まねばならない。ここに姦臣傳を作る。
出自と登用
- 蔡確は字を持正といい、泉州晋江の人。父の蔡黄は陳に徙り住み、知恵に富むが素行に難があった。進士に及第し邠州司理参軍に任じられ、賄賂の噂が立つ。
- 転運使の薛向が取り調べようとしたが、蔡確の風采を見て逆に評価し、韓絳が陝西宣撫の際に彼の作った楽語を才ありとして推薦した。開封尹の韓維に招かれるが、韓維が去ると旧例により庭参すべきところをこれを拒み、後任の劉庠に叱責されると「昔の藩鎮と今の輦轂下は違う」と述べて職を辞した。
- 王安石の推薦で三班主簿となり、鄧綰の推薦で監察御史裏行となる。王韶が熙河で多く公銭を貸し出した件を秦帥の郭逵が弾劾すると、蔡確は逵を陥れて自らの功とした。神宗が王安石に厭きた機を見て取り、安石が馬で宣徳門に入り衛士と衝突した過失を弾劾し、御史知雑事に昇進した。
獄事を通じた昇進
- 范子淵の浚河の役を知制誥の熊本が非としたのを、蔡確は熊本を弾劾して罷免させ、自ら知制誥に代わった。知諫院・判司農寺を兼ね、三司使の沈括が免役法について宰相呉充に諫言したのを、蔡確は「陰で王安石を批判している」と讒言し、括は宣州知事に左遷された。
- 開封の獄事(相州の民訟事件)が判官の陳安民に連なり、安民の甥の文及甫が呉充の子・呉安持に助けを求めた縁で、蔡確はこれを機に大臣(呉充)を陥れようとし、御史台に事件を移させた。中丞の鄧潤甫・御史の上官均が拷問の実態を密奏すると、蔡確は先手を打って両者を「罪人を庇い、寃を訴える囚人を虐待している」と弾劾し、両名は罷免され、蔡確自身が御史中丞となった。
- 太学生の虞蕃の獄では、翰林学士の許将以下の朝士を悉く逮捕・拘禁し、獄卒と同室で不衛生な環境に置いて自白を迫った。この獄を利用して参知政事の元絳を追い落とし、その位に代わった。士大夫は蔡確のやり方を非難したが、本人は得意であった。
右僕射就任と権力集中
- 吳充が新法の弊害を帝に度々説いたが、蔡確は「曹参と蕭何には確執があったが、代わって相となると何の遺法をそのまま用いた」と述べ、新法を変えさせなかった。元豐五年、尚書右僕射兼中書侍郎を拝命。
- 富弼が「蔡確は小人であり重用すべきでない」と上言していたが、蔡確は羅織の獄をしばしば興し、士大夫は震え上がった。官制改革では、三省の実権を中書に帰そうと図り、王珪には「久しく相位にあれば中書令を得られる」と偽って信じさせ、自らは「三省長官の位は高いので令を置かず、左右僕射に両省の侍郎を分兼させれば足りる」と帝に進言、これにより蔡確は次相の名でありながら実権を握り、王珪は左僕射のまま実権を失った。
- 哲宗即位後、韓縝が入相すると、蔡確は韓縝の甥を列卿に用いたことを御史中丞の黄履に弾劾させ、三省の取旨事や台諫の章疏を執政に共有させる制を改めさせて権を握り続けようとした。
車蓋亭詩案と失脚
- 永裕山陵使として神宗の葬送に携わった際、宿次を守らず扈従もせず、その後も辞去を願い出なかったため、御史の劉摯・王巖叟に連続して弾劾され、「熙寧・元豐の寃獄・苛政に関与しながら反省がない」と非難された。
- 司馬光・呂公著が登用され煩苛な法を除くと、蔡確は「自分が既に建白した内容だ」と主張し、公論に容れられなくなったが、太皇太后(宣仁后)はしばらく退けなかった。元祐元年閏二月、ようやく罷免されて観文殿学士・知陳州となった。翌年、弟の蔡碩の事件に連座して職を奪われ、安州、次いで鄧州に移された。
- 神宗の病が篤くなった際、王珪が儲君(皇太子)の議を建てたとき、蔡確は同列にいて事情を知りながら、章惇・邢恕らと結託し、王珪に異心があると讒言して自らの功に帰そうとした。この一件が後に露見し、また安州で「車蓋亭」にて詩十章を賦したのを、知漢陽軍の呉處厚が「郝処俊の唐の高宗に対する諫言」に事寄せて宣仁后を暗に誹謗するものと訴えた。
- 諫官らが連署して罪を正すよう求め、蔡確は光禄卿に貶され、さらに英州別駕・新州安置に落とされた。宰相の范純仁・左丞の王存はかつて彼を救う言をなしたとして罷免され、御史の李常・盛陶・翟恩・趙挺之・王彭年も連座した。蔡確は貶所で没した。
死後の顕彰と剥奪
- 紹聖元年、馮京が卒し哲宗が弔問に赴いた折、蔡確の子・蔡渭(馮京の婿)が喪の場で訴え、翌日、蔡確に正議大夫が復された。紹聖二年、太師を贈られ「忠懷」と諡され、遣使して葬儀を護らせ、京師に邸宅を賜った。崇寧初年には哲宗廟庭に配饗され、蔡京の請により徽宗自ら「元豐受遺定策殊勲宰相蔡確之墓」と墓前に石を立てた。
- 蔡京は鄭居中と不仲となり、居中が憂により去ると、京は居中の復用を恐れ、渭(改名して蔡懋)に旧事を再燃させて居中を沮ませ、確を清源郡王に追封させた。懋は同知枢密院事に抜擢され、次子の荘も従官となり、諸女・諸婿も官爵を得て一族は当世に権勢を誇った。
- 高宗即位後、羣姦の罪を暴く詔が下り、蔡確は武泰軍節度副使に貶され、懋は英州に竄られ、濫恩は一切削奪された。天下はこれを快とした。
呉處厚(附伝)
- 呉處厚は邵武の人、進士に及第。仁宗がしばしば皇嗣を失った際、「史記の趙氏廃興の顛末を読むに、程嬰・公孫杵臼が趙孤を救った忠義が未だ褒表されていない」と上言し、帝の覧するところとなって将作丞に任じられ、両墓を絳州に訪ねて廟を建てた。
- 蔡確はかつて呉處厚に賦を学び、蔡確が相となったとき、處厚は牋を通じて憐れみを乞うたが、確は引き立てなかった。王珪は處厚を大理丞に用いたが、王安礼・舒亶の相争う事件で、處厚が王安礼側に立ったことから、蔡確は舒亶救援を密かに図り、處厚はこれに従わず、確は激怒して逐おうとした。王珪が處厚の館職就任を請うも蔡確はこれも阻んだ。
- 確が知通利軍・知漢陽に處厚を追いやると、處厚は不満を抱いた。元祐中、蔡確が知安州となり、静江の戍卒を漢陽に遣らせようとしなかったため、處厚は「かつて私を陥れておきながら」と怒り、蔡確の車蓋亭の詩に「郝甑山」の事が引かれているのを見て箋釈を上奏、「高宗が武后に譲位しようとしたのを郝処俊が諫めた故事を今、太皇太后に比した」と訴えた。これにより蔡確は南竄され、處厚は知衛州に抜擢されたが、士大夫はこの所業を嫌悪した。紹聖年間、處厚は歙州別駕に追貶された。