宋史卷四百六十九 列傳第二百二十八 董宋臣

理宗の寵愛を最後まで受けた宦者

  • 董宋臣は理宗朝の宦者で、淳祐中、睿思殿祗候から特に横行官に転じ、宝祐三年、佑聖観の幹辦を兼ねた。侍御史の洪天錫がこれを劾したが聞き入れられず、天錫は大理少卿に左遷された。開慶初、大元の兵が江上に駐屯し京師は大いに震撼したが、宋臣は帝の遷幸を賛し、寧海軍簽判の文天祥が宋臣を誅するよう上疏したがこれもまた聞き入れられなかった。
  • 景定四年、保康軍承宣使から入内内侍省押班を除せられ、まもなく太廟往来国信所の主管を兼ね、内軍器庫の提点を同じくし、翰林院編修敕令所を都大提挙し、顕応観を提点し、景献太子府事を主管した。折しも文天祥が著作佐郎兼献景府教授であったが、義として宋臣と職を連ねることを拒み、上書して去ることを求め、天祥は瑞州知事として出された。
  • 言者は宋臣を論ずることをやめなかったが、帝は無理にこれを弁明し庇った。秘書少監の湯漢も封事を上げ「宋臣は十余年来、声焰が薫灼し、その力は台諫を去らせ大臣を排斥することができ、凶悪な首謀者と結んで大禍を招くに至った、中外は惶恐し切歯しているのに、陛下はこれを弁明し大臣もこれと和解しようとしている、これは過った計略です。願わくは押班等の除命を収めていただければ、宗社にとって幸いこの上ないことです」と言った。疏が入っても帝はこれを省みなかった。
  • 六月、御前馬院と酒庫の主管を命じられ、卒すると帝はなお特に節度使への転任を命じた。その寵愛を受けたことはこれほどであった。