宋史卷四百六十九 列傳第二百二十八 闕禮

寧宗擁立に尽力した最後の忠実な宦官

  • 闕礼は高宗朝の宦者で、淳熙末に積官して親衛大夫・保信軍承宣使に至り、孝宗に頗る親信され、後に重華宮の提挙を命じられた。孝宗崩御の際、光宗は病により喪を執ることができず、枢密の趙汝愚等は儲を建て人心を安んじることを請うたが、光宗の御批にはまた退閑を念じる語があり、丞相の留正は納禄して去ることを懼れ、人心はますます揺らいだ。
  • 汝愚は戚里の韓侂胄を遣わし内侍の張宗尹を通じて禅位の議を太皇太后に奏上させたが、太后は「これはどうして軽々しく言えることか」と言った。翌日、汝愚は再び侂胄を宗尹に付けて奏上させたが、命を得ないまま侂胄は退き、礼と会った。礼はその意を知りこれを問うたが、侂胄は告げず礼は天を指して沈黙を誓った。
  • 侂胄はついにその事を白し、礼はすぐさま宮に入り太后に泣いて時事の憂うべき状を告げ、「留丞相はすでに去り、頼りとするところは趙知院だけです。今、大計を定めようとしても太皇太后の命がなければ、これもまた去ろうとするでしょう」と言った。太后は驚いて「知院は同姓である、事の道理は他人と違う」と言った。礼は「知院がまだ去らないのは太后がおられるからです。今、請いを許されなければ、他に手立てはなく去るだけです。知院が去れば、天下はどうなるでしょうか」と言った。
  • 太后は悟り、礼に旨を侂胄に伝え汝愚に諭させ、翌日太后が垂簾することを約した。この事を上げ、さらに翌日、嘉王が入って禫祭を行った際、汝愚が簾前で御批を進呈し、太后はついに王に皇帝の位に即くよう命じた。まもなく礼は入内内侍省都知を除せられ、さらに重華・慈福宮承受を兼ね皇城司提挙を充てられ中侍大夫に遷った。礼は功を自ら誇らず致仕を乞うたが許されず、推恩を免ずることを乞うてもまた許されなかった。南渡後の内侍で称賛に値するのはただ邵成章と礼だけであるという。