宋史卷四百六十九 列傳第二百二十八 甘昪

二十年権勢を振るった専横

  • 甘昪は内侍省押班の澤の子である。澤の死後、昪も累進して押班に至った。乾道中、帝が頗る昪を親しんだため昪はこれにより用事した。臨安尹の胡与可が小官であった頃、臨安の富民馬氏に借金を求めたが望み通りにならずこれを恨んでいた。この頃、馬氏は官塩を規格を超えて売った罪で獄に繋がれたが、与可は有司に諷して私塩と論じさせようとした。御史の陳升卿が獄を決し平反した。
  • 昪の子の婦は与可の娘であったため、密かに与可のために計り、帝の前で升卿を讒言し、豪民の馬氏の頼みによるもので得た賂は万緡に至ると言った。上は疑い罪を論じ、馬氏は厳州に流され、升卿はこれにより罷められた。当時、曽覿は使弼として京祠を領し、王抃は知閤門を兼ね枢密都承旨を務め、昪は入内押班であり、三人は互いに盤結し、恥を知らない士大夫は競ってこれに附いた。
  • やがて覿が死に抃が逐われても昪だけは残り、朱熹が力めてこれを言った。帝は「昪は徳寿宮が薦めた者だ、才があると言われている」と言った。熹は「姦人に才が無ければどうして人主を動かせようか」と言った。昪が用事すること二十年、権を招き賄を市り、黄由の対策もこれに頗る言及した。後に帝がその姦を察し、罪に問い資財を籍り、ついに廃されて死んだ。
  • 弟の昺は淳熙末、内東門司を幹辦し帯御器械となり、光宗朝で累進して親衛大夫・保康軍承宣使・佑神観提挙に至り、慶元初に内侍省都知となった。帝が寿康宮を訪れた際に昺が力を尽くしたことにより官を二秩遷され、頗る貴寵を得た。