軍政干渉で弾劾された寵臣
- 陳源は淳熙中、徳寿宮を提挙し頗る寵を得て、まもなく浙西副総裁を帯びた。給事中の趙汝愚は内侍が軍政に関与すべきでないと言い、罷められた。源は恩を恃み専恣にふるまい、本宮の書史であった徐彦通は源のために家務を掌り、数年で経武大夫にまで官が至った。甄士昌は源の使用人であったが理髪の腕を買われ承信郎に補せられ、また臨安府の都吏李庚を補し官によって府事を伺わせた。
- 孝宗はこれを聞いて悪み、十年春、源が応奉に日が長いことにより特に階官を落として京祠を与える詔を出したが、給事中の宇文价は録黄を封還し外祠台官に改めた。黄洽等がさらにこれを劾し、源は建州居住に謫され資財は籍られ徳寿宮に進上された。彦通は除名され道州編管、士昌・庚はともに罪に問われた。言者はなおやまず、源は郴州に移された。
- 源は小隠と名づけた園を持ち、その造りは禁籞(宮廷の禁苑)に匹敵するほどであったが、高宗はこれを王才人に賜った。光宗即位後、再び召還された。紹熙四年、拱衛大夫・永州防禦使から入内内侍省押班を除せられた。帝は病により重華宮に朝しなかったが、源は内侍の楊舜卿・林億年としばしば離間の言があった。寧宗即位後、三人はともに光宗に泰安宮で仕えることを命じられた。
- 御史の章潁は君臣を離間させたと論じ、誅竄して寿皇(孝宗)の在天の霊を慰めるよう請うた。詔により源等の官は罷められ、源は撫州、億年は常州に居住させられ、舜卿は任便居住とされた。慶元二年、皇子誕生の恩により源・億年は自便が許されたが、舜卿は内祠給事中の汪義端がこれを駁し、源は婺州、億年は湖州に移された。義端は再び舜卿を駁し内祠は反対に外補された。その後、源等はついに自便を聴された。億年は別業で娼女を養い、源は貶所で妓と乱れ淫媟が聞こえ、人はその宦者ではないことを疑ったという。