苗劉の変で殺された高宗側近
- 藍珪・康履は初めともに康王府都監・入内東頭供奉官であり、かつて康王に従い金人行営に使いし、開元帥府に及んでも並んで機宜文字を主管した。朝廷が人を遣わし師を促して入援させた際、履等は王に相州に留まるよう請うたが、王はこれを叱って行った。
- 即位すると二人はともに恩を恃んで用事し、履はとりわけ威福を妄りに作し、劉光世等の大将も多くこれに媚びて仕えた。帝はこれを知り、内侍が統兵官と会うことを許さない詔を出し、違反者は官を停め編隷することとしたが、履はついに憚ることなく内侍の曾択とともに諸将を凌忽し、あるいは踞坐して足を洗わせ、諸将を左右に立たせ声喏(挨拶)させ、甚だしくは馬前でまでこれを行わせたため、疾む者が多かった。まもなく内侍省押班・金州観察使に遷った。
- 帝が揚州にあった際、金兵が突然至り帝は馬を馳せ門を出たが百官は戒備していなかった。従行した者はただ履等五、六人であった。これより履等はますます自ら誇り外朝を軽んじる心を強め、浙道の呉江に幸した際、その党は競って射鴨を楽しみ、杭州の江下で観潮に至ると中官の供帳が赫然として道を遮り、統制の苗傅等は切歯して「こやつらは天子をここまで至らせてなお敢えてこのようなことをするのか」と言った。
- 傅の幕客の王世脩もまた中官の恣横を疾んでおり、武功大夫の劉正彦にこれを告げると、正彦は「必ずこれを共に除こう」と言った。王淵が枢筦(枢密院)に躋ると、正彦はこれが宦者に薦められたものと考えますます不平を強め、謀はついに決し、伏兵を放って淵を斬り、兵を遣わし履の家を囲んで中官を分捕し、髭のない者はみな殺した。履は帝のもとに馳せ入り訴えると、傅等は至って声高に「陛下が中官を信任するため、中官が主る所の者は皆美官を得、王淵は賊に遭っても戦わずに枢密の位を得た。外にいた中官はすでに誅せられたので、さらに康履・藍珪・曾択等を誅して三軍に謝することを乞う」と言った。帝は忍びなかったが、傅等の官を除きこれを安んじた。
- 傅等は「官を遷すことを望むなら、ただ馬二匹を控えればよいだけだ、内侍にどうしてこれほどのことをする必要があるのか」と言った。帝が百官に策を問うと、浙西機宜文字を主管する時希孟は「中官の患いはここに極まっている、除かなければ天下の患いはやまない」と言った。軍器監の葉宗諤は「陛下はなぜ一人の康履を惜しんで三軍を慰めようとしないのか」と言った。帝はやむを得ず人を遣わし履を捕らえさせた。履は帝を望んで「大家(陛下)よ、なぜ私だけを殺すのですか」と叫んだが、ついに傅に引き渡され腰斬に処され、その首は梟された。
- 帝が睿聖宮に幸した際、傅等は内侍十五人を残して左右に奉じさせ、まもなく珪・択等を捕らえてみな遠州に編置し、択は昭州に一程行ったところで追い還され斬られた。傅等が誅せられると、履に官を贈り諡を栄節とした。珪等を召還すると、中書舎人の季陵は「中官が再び召されれば、その党与は互いに慶賀し合い気焔がますます張り、中外は切歯するだろう」と言ったが、聞き入れられなかった。
- 珪は武功大夫から内侍省押班に抜擢され、慈寧宮建立にあたり提点事務を命じられ、まもなく内侍省都知に昇進した。太后を迎えるにあたり都大主管に充てられ、太后が宮に還ると珪は「応じて授けられるべき恩は慈寧宮に施行するよう聴されたい」と奏し、これに従った。珪は当初履とともに進んだが驕横は履に及ばず、そのため寿を全うすることができた。
- 珪と同姓の安石なる者があり内侍省副都知となり、景福殿使・湖州観察使に至って卒し、保寧軍節度使を贈られ、諡は良恪。渡江後の中官への贈諡は安石より始まった。また履と同姓の名を諝という者があり内侍省押班となり、これも親幸を得て用事し、知閤門事の藍公佐と親しく、公佐を自室に招くたびに必ず縦飲して大酔し、日暮れてから帰るなど、しばしば禁中の言を漏泄した。劉光遠が劾せられた際、諝は内侍の陳永錫とともにその金を受け取り力を尽くして営救した。言官がこれを劾すると、帝は永錫を祠に付し諝は吏部に送らせた。後に累官して均州観察使に至り、卒すると保信軍節度使を贈られ、諡は忠定。