両宮を離間した罪で処刑
- 任守忠、字は稷臣。蔭により入内黄門となり、累転して西頭供奉官・御薬院を領した。事に坐して廃され、久しくして元の官に復し、やや遷って上御薬供奉となった。当初、章献后が聴政した際、守忠は都知の江徳明等と交通し請謁の権寵が過度に盛んになったが、仁宗の親政後は黄州都監として出され、また英州酒税を監することに謫され、やや遷って潭州都監となり合流鎮に徙った。
- 西鄙で用兵があると秦鳳・涇原路駐泊都監となり、功により再遷して東染院使・内侍押班となり、定州鈐轄として出て内侍副都知を加えられ、累進して宣政使・洋州観察使となり入内都知となった。仁宗にまだ嗣子がなく英宗に意が属していた頃、守忠は内で建議し昏弱な者を援立して大利を得ようと謀った。
- 英宗即位に及び宣慶使・安静軍留後を拝したが、守忠はまた誕妄な言を発し両宮を交々乱した。そこで知諫院の司馬光は「守忠が離間する罪は国の大賊、民の巨蠹である」と論じ、都市で斬るよう請うたが、英宗はまだ実行しなかった。宰相の韓琦は空頭敕一道を出し、参政の欧陽脩がすでに署名していたが趙概はこれを難じた。脩は「ただ書くだけでよい、韓公には必ず考えがあるはずだ」と言った。琦は政事堂に坐し守忠を庭下に立たせ「汝の罪は死に当たる」と言い、保信軍節度副使・蘄州安置に貶め、空頭敕を埋めて与え即日押送した。琦の意図は少しでも緩めれば変事が起きると考えたためであった。
- 守忠は久しく寵幸を被り中で権勢を振るい人々はその過ちを言えなかったが、貶されると中外はこれを快とした。しばらくして左武衛将軍として起用され致仕し、享年七十九で卒した。