宋史卷四百六十八 列傳第二百二十七 程昉

治河功と姦欺の非難

  • 程昉は開封の人。小黄門から積遷して西京左蔵庫副使となった。熙寧初、河北屯田都監となり、河が棗強で決すると二股河を釃いて東へ導き、鋸牙の下に竹落を用いて決口を塞ぎ、帯御器械を加えられた。河が商胡で決し北流が御河と合わさり一つになると、二股東流によって御河がついに浅く淀んだため、昉は開浚の功により宮苑副使に遷った。
  • また漳河を塞ぎ、洺州に浮梁を作り、外都水丞を兼ね、水利の興修を相度するよう詔された。河が大名の第五埽で決すると昉はこれを塞ぐことを議し、あわせて塘水を疏いて深州の田を灌漑し、また葫蘆河を楽寿の東から滄州まで二百里導き、孟家口を塞ぎ、乾寧軍に直河を開き、真定の中渡に橋を作り、また衛州の王供堦から沙河を導いて御河に入れ運路を広げた。累進して逹州防禦使となり河北の河防水利を制置した。
  • 御史の盛陶は「昉は第五埽の功を挟んで専ら自らの力とし、朝廷の威福を仮り州県を恐動させ、共城河の開削で人戸の水磑を廃らせたが久しく成功がない」と言い、また沁河を開くことを議したが、察訪官の按行によりその不便がようやく知られた。漳河・滹沱の役は邢・洺・趙・深・祁の五州の田を水没させ、王広廉・孔嗣宗・銭勰・趙子幾は皆その姦欺の状を論奏し、決河が侵した所を淤田と称して撻口を多く置き、事権が盛んになると官を挙げ吏を廃するのも思うがまま、悖慢で豪横な振る舞いをすれば聖旨を受けること三回、提点刑獄司の牒を受けること十二回に及び、違拒する小人が誤って賞擢に当たり驕暴自恣となったため、官を遣わして代還させ究治すべきだと言った。
  • 神宗は「王安石は昉が河事を知るとして任使を加え、漳河を開くのに工七百万、滹沱に八九百万を用いさせ、すでに体量を議した。当初安石が水利を興そうとし急に昉を用いたが、昉は安石の勢いを挟んで韓琦を侮った、後に安石はその虚誕を悟りこれを疎んじた」と言った。憂いのうちに死し輝州観察使を贈られ、都大制置河防水利司は罷められた。