保州の乱の内応交渉と定制の制定
- 李継和は開封の人。父の任により内侍黄門となった。慶暦中、河北西路承受となった。保州兵が叛乱を起こし城門を塞ぎ官軍を重囲してもなお入れなかった際、継和は独り南関門に上り、密かに結んだ内応者を呼び禍福を諭したところ、衆は「李昭亮が至るのを待って関を斬り自ら帰順する」と言い、果たしてその通りとなり、賊が平定されると両秩を遷った。
- 王則が貝州で反すると城下の走馬承受となった。沙苑で馬が欠乏した際、詔により秦州に場を置き劵で馬を市うことにされ、継和は職を領してから数ヶ月で馬千数を得て人を騒がせなかった。旧制では内侍が仕官してから三十年経ってようやく磨勘を受けられたが、これにより労によって官を進める者は年齢に拘らないこととされた。
- 環州の弓箭手に季節の酒を給する慣例があったが、州将が与えなかったため衆が喧しく訴え、府門を閉じて出られない事態になった。継和は徒歩で衆の中に入り「お前たちは一杯の酒のために命を失うつもりか」と諭すと衆は悟り散っていった。この事が聞こえ帯御器械に抜擢され、累進して宣慶使・文州団練使・入内副都知として卒した。子の従善が例により官の贈与を求めたが、神宗は「これは弊事である、継和には軍功がない、なぜ贈るべきか」と言い、以来これが定制となった。