宣仁太后垂簾との関わりで処刑される
- 陳衍は開封の人。内侍として殿庭に給事し累官して供備庫使に至った。梁惟簡が宣仁聖烈皇后に推薦し、髙・韓王宅を主管し御薬院・内東門司を領した。宣仁の山陵では按行使を務め、まもなく左蔵庫使・文州刺史として真定路都監として出た。
- 御史の来之邵が元祐の政事を強く非難した際、まず「衍は垂簾の日に寵を恃んで驕肆に振る舞い、戚里と結び大臣の進退を左右し、力めて私する者を耳目の地に置いた」と論じた。張商英もまた「衍は宰相と交通し、御服を珠結として賜わり、詞臣に托して儲祥(祥をたくわえる意)を膳として賜わった」と論じたが、これは呂大防・蘇軾を指したものであった。衍は貶められ郴州酒税務を監することとなった。梁惟簡は張士良を援引したこと、梁知新は党附したことでともに罪を得た。ほどなく白州に編管され、朱崖に配された。
- 章惇が獄を起こし、元祐の諸老大臣が衍らと結んで廃立を謀ったと誣告した。士良はかつて衍とともに宣仁后の閤にあったため、郴州から召してその説を実証させようとしたが、士良は「宣仁が弥留の際、衍はかつて二府の事を可否し御宝を用いて外に付したにすぎない」としか語らず、鍛錬しても何も得られなかった。安惇・蔡京は「衍は両宮を疎隔させ、随龍の内侍十余人を外に斥け、人主の腹心・羽翼を剪除しようとし、意は動揺にあり大逆不道である」と奏し、詔により処死とされ、広西転運使の程節が刑を莅んだ。