宋史卷四百六十七 列傳第二百二十六 劉惟簡

英宗の信任を得た慎重な言上

  • 劉惟簡は開封の人。入内黄門から積官して昭宣使・康州刺史・髙陽関路兵馬都監に至り、入内押班となった。英宗初立の際、惟簡は河北から朝に来て対面を請うたが、寝門の内謁者はこれを難じ、皇太后だけがこれを引見した。惟簡は福寧殿の下に立ち、雨が衣を沾らしても退かなかった。帝は幃中に起き望見して「諸路でお前のような者は何人いるのか、どうして一人で来たのか」と問うと、惟簡は「陛下が新たに即位されたので、臣は辺塞から来て天表を未だ瞻ぬまま、みだりに帰るわけにはいかず、他のことは存じません」と答えた。帝は「小臣がこれほどよく道をわきまえている」と嘆じ、その姓名を屏に記憶した。
  • 後日、神宗は屏に題された名を見て延福宮の幹当に抜擢した。以来親信を蒙り、交人(交阯)が叛くと詔により駅を馳せ桂州に至り事勢を審視させ、戻って「帥臣の劉彝は功を貪り事を生じており罪は誅に当たる、乾徳の狂童(李乾徳)の頸は繋ぐに足らない」と言上し、帝はこれを信じた。郭逵・趙禼が南征する際、行営承受とされたが、逵・禼が謫せられると惟簡も一官を奪われた。陝西五路の師が還ると士卒を撫犒することを命じられたが、病により先に帰った者には賜わなかった。
  • 惟簡は内心これを不便と考え、慶州に至って「士卒は不幸にも将臣が上の聖旨に違えたことにより糧食が続かず、逃げて生き延び帰ってきた、その情は許すべきである。今、同じく庭に立ちながら賜与に預らなければ、患いが急に生じるのではないか」と疏を上げた。帝はその言を用い均しく与えた。また河北の保甲を按閲し京西の水災を振済し諸陵の薦献を参定した。しかしまもなく言者に劾られ用いられなくなった。哲宗が藩にあった頃、惟簡は奔走して奏し勤めを尽くし、親政に及ぶと左右に召され、内侍押班として卒し昭化軍留後を贈られた。