経歴と直言
- 呂祖儉、字は子約。呂祖謙の弟。祖謙の喪に服すため赴任を延期し、朝廷はこれを制度化(違年規定)した。丞相周必大・尚書尤袤らの招きも固辞し、諸官を歴任。中丞何澹の継母服喪問題を礼制に照らして批判する書を宰相に送るなど直言で知られた。
- 寧宗即位後、太府丞として韓侂胄の専横下、右相趙汝愚の罷免を弾劾する李沐の議論に反対する奏を提出し侂胄の怒りを買った。李祥・楊簡ら趙汝愚を擁護する官が次々罷免される中、封事を上奏し「言路を塞げば天下の利にあらず」と諌め、韓侂胄一派の権勢集中を批判した。上奏には「左右の□(底本欠字)が黜陟・廃置の際に容喙し、その門に車馬が市の如く集まる」との一節があった。
貶謫と朱熹との交流
- 上奏の結果「朋比罔上」として韶州安置に処された。中書舎人鄧驛は「祖儉の罪は貶謫に及ばぬ」と繳奏したが認められず、樓鑰の弁護でも配流地は据え置かれ、後に吉州へ改められた。赦により高安に移り2年後に没し、朝廷は帰葬を命じた。
- 貶謫にあたり朱熹は「自分は官も恩遇も祖儉より厚いのに黙視して報いず、祖儉一人に憤懣を負わせて禍を招かせた」と書を送り、祖儉は「朝廷にいれば水火の中にいるようなもの、謫居してかえって心穏やかだ」と返した。著書に『大愚集』がある。