宋史卷四百五十五 列傳第二百十四 馬伸

程頤への師事と靖康の節義

  • 馬伸、字は時中。東平の人。紹聖4年(1097年)進士。蜀の郫県丞のとき租税収受の弊を絶ち民に慕われた。程頤に師事しようとしたが、党禁の時勢を憂う程頤に諭され直接の入門を控えつつ、公暇には必ず教えを受けに通った。
  • 靖康初、孫傅の推薦で御史中丞秦檜に召され監察御史となった。金軍が汴京を陥し張邦昌を擁立した際、百官が兵に囲まれ推戴を強いられる中、馬伸は独り拒否し、秦檜らと趙氏存続を求める議状を作成。呉革の義兵計画にも関与した。

張邦昌への諫言と建炎年間の左遷死

  • 邦昌に康王(高宗)擁立を求める書を単独で提出。書は邦昌の自省を強く迫る内容で、邦昌は気勢を失い、哲宗后孟氏の垂簾と偽赦の取り消しにつながった。龍徳宮の宝貨売却も馬伸の抗議で中止させた。
  • 高宗即位後、殿中侍御史として荊湖広南を巡察し張邦昌一派を糾弾。黄潜善・汪伯彦の不法17ヶ条を弾劾する疏を準備したが、先に孫覿・謝克家が重用されたため覿の不正を先に告発した。さらに潜善・伯彦の失政(威権濫用、言路閉塞、人事の私物化、軍権の私物化など)を数え上げる長文の疏を上奏したが、留め置かれた末に衛尉少卿に左遷された。
  • 論事が実らぬとして辞任を申し出るも「言事不実」とされ濮州監酒税に貶謫され、赴任の道中で没した。世人はその冤を悼んだ。翌年、金軍が広陵に侵入し馬伸の言が的中したことが証明され、潜善・伯彦は失脚。胡安国の上奏により諌議大夫を追贈された。生前は中庸を毎朝誦読するなど篤実な人柄で、著述の草稿は自ら削除するなど謙抑だった。

何兌(馬伸門人・附伝)

  • 何兌、昭武の人。馬伸に師事しその事状を編纂した。紹興中、辰州通判のとき秦檜への報告を巡り、事状を横取りされたとして秦檜の怒りを買い、獄に下され削官・流罪となったが、秦檜の死後に赦免、復官してまもなく没した。