宋史卷四百五十五 列傳第二百十四 歐陽澈

上書と刑死

  • 欧陽澈、字は徳明。撫州崇仁の人。美しい鬚眉を持ち、慷慨で憂国の情に篤かった。靖康初、辺境防禦十策と朝政の欠失十事を上書、「切要だが権臣・天聴に触れる」と自覚しつつ直言を続け、上書は三巨軸に及び運搬に力士を要するほどだった。
  • 金軍の侵入で講和が結ばれると、澈は「自ら金を説けば百万の兵に勝る」と豪語し、人質として単身赴くことも辞さぬ意志を語ったが、人には笑われた。高宗即位の南京で用事の大臣を激しく非難する封事を上奏し、陳東と同日に処刑された。時に37歳。
  • 許翰はこの処刑が独断で行われたことに驚き弾劾を図ったが果たせず辞職した。澈のために哀詞が作られ、遺著『飄然集』6巻が刻まれ、豊城の范応鈐は学中に祠を建てた。