宋史卷四百五十五 列傳第二百十四 陳東

上書のはじまり

  • 陳東、字は少陽。鎮江丹陽の人。若くして評判があり、俊爽・不羈で貧賤にも動じなかった。蔡京・王黼が権勢を振るう時代、誰もが指弾を憚る中で独り隠さず直言し、周囲が座を避けるほどだった。太学に貢入し、欽宗即位にあたり同学を率いて闕下に伏し上書、蔡京の壊乱・梁師成の陰謀・李彦の結怨・朱勔の結怨・王黼と童貫の対遼金開衅を挙げ、「六賊」の誅殺と首を四方に伝えて天下に謝すことを求めた。言葉は極めて激烈だった。
  • 翌年春、蔡京らが徽宗の東行に従うと、陳東は独り上書して童貫らの召還・正典刑と忠信の士の登用を求めた。金軍が汴京に迫ると再び六賊誅殺を求め、なお禁中に残っていた梁師成はこの前後の姦謀を暴かれて誅死した。
  • 李邦彦は金との和議を主張し、李綱・种師道は主戦を唱えたが、邦彦は小敗を口実に李綱を罷免し三鎮を割譲しようとした。陳東は再び諸生を率いて宣徳門下に伏し、李綱を「社稷の臣」、李邦彦・白時中・張邦昌・趙野・王孝廸・蔡懋・李棁らを「社稷の賊」と名指して弾劾する上書を行った。

欽宗期の続く上書と刑死

  • 上書に軍民数万が呼応し、伝旨の慰諭にも人々は退かなかった。金軍が退くと、学官や京尹王時雍は陳東を含む諸生を投獄しようとしたが、楊時の祭酒登用や聶山の撫諭により沈静化した。呉敏は謗りを避けるため陳東に官を与えようとしたが、陳東は蔡氏の誅殺をなお求めて固辞し帰郷した。
  • 高宗即位後、再び召された陳東は李綱の留任と黄潜善・汪伯彦の罷免、二聖奪還のための親征を上書したが取り上げられなかった。潜善らは高宗の南京駐留を主張し、陳東が以前「李綱の南京行を批判した」旧上奏を利用して弾劾した。折しも布衣の欧陽澈も上書して政事を論じ、潜善はこれを口実に高宗を激怒させ、両者は取り調べなしに市中で斬られた。
  • 陳東は死に臨み、従者に「わが死後、家事を親に伝えよ」と遺言し、従容として刑を受けた。時に42歳。高宗は3年後に事の非を悟り、陳東・欧陽澈に承事郎を追贈、遺族に恩典を与え、後に秘閣修撰も加贈された。