髙談
- 字は景遂、卲武光沢の人。紹定二年、近隣の郡で盗が起こり子らが避難を求めたが、談は「かつて楊子訓が胡文定公に賊を避ける方策を尋ねたところ、公は『昔盗が燕山で起これば河北・関中に避けられ、関中で起これば河南・漢南に避けられた、今は二広(広南東西路)だけが盗のない地であろうか、私はただ心を尽くして命に従うのみだ、お前たちよ心に留めよ』と答えたという。これは格言だ。今南に行けば汀・剣、西に行けば旴・贛がみな盗の地となり、東の富沙には城があるが官吏が我らを受け入れないと聞く、北の広信は防夫が民を諜者と見なし殺すこともある、胡公の言に従うほか策はない」と述べた。盗が入ると子らはさらに避難を求めたが「祖廟の位牌があるのにどこへ行けと言うのか」と述べた。賊が至ると談は出て「豊作の時世になぜこのような乱を起こすのか」と言うと、賊は「吏が貪暴で民には訴える所がない、我々はそれを正すのだ」と答えた。談は「なぜ太鼓を打って朝廷に訴えないのか、民に何の罪があってこれを殺すのか」と言うと、賊は怒って庭に捕らえ、牛酒を贈っても釈放せず金帛を贈っても釈放しなかった。談が「それでどうしようというのか」と問うと、賊は「我らは東の武陽を破ろうとしている、あなたのような耆老を得て郷里の子弟を率いさせられれば成就できるだろう」と述べた。談は「その言葉、私にどうして通じようか」と述べ賊に唾を吐きかけ大いに罵り、ついに殺害された。里人はこれによって難を免れたという。談は平生言動を礼法に従わせていたため郷人は敬いこれに従った。