宋史卷四百五十三 列傳第二百十二 孟彦卿

孟彦卿

  • 忠厚の従父で兵事に通じ潭州通判となる。建炎三年、潭州の城内で叛卒が放火と略奪をして東門から出たとき、帥臣・向子諲が彦卿にこれを追撃させ、まもなく招安した。まもなく潰兵の杜彦が袁州から瀏陽に入り善化・長沙二県を犯すと彦卿は民兵を率いてこれを拒み自ら数人を殺し賊は挫けて瀏陽へ退いた。彦卿はこれを追撃したが民兵が潰えるとまた乗じられ、彦卿は殺され首を取られ、掠われた民兵に「これは善戦の孟通判の首だ」と晒された上、体を切り裂かれ晒された。添差通判・趙民彦が民兵を率いて赴き、瀏陽城南の南流橋で山を頼み陣を布いて激戦し多くを殺傷したが、間者が陣中の旗を折ったため衆は民彦がすでに敗れたと錯覚して潰え、民彦は賊に捕らえられた。邑士・謝淳は才勇をもって衆に推され民兵の前鋒として民彦の戦を助け自ら数十人を殺したが力尽きて捕らえられ、賊はともに殺した。事が上聞し彦卿・民彦ともに直龍図閣を贈られ家族はそれぞれ三人が登用され、淳は字を景祥といい成忠郎を贈られ子・晞古が登用された。朱熹が湖南を治める際、彦卿・民彦のために廟を立て淳を配祀するよう請うた。