宋史卷四百五十三 列傳第二百十二 鞠嗣復

鞠嗣復(宋旅・丁仲修・項徳)

  • 出自不詳。宣和初、歙州休寧知県。方臘の徒党が県を破り降伏を迫るため士人二人を斬って脅したが、嗣復は「古来、妖賊が長く続いた例はない、お前たちは逆を捨て順に従えば我々の口添えで朝廷の官爵を得られるかもしれない、それをどうして私を脅して降らせようとするのか」と罵った。嗣復は必ず死ぬと知りながら怯まなかった。賊は「私は県人だ、あの明府(知県)は善政を布いてきた、殺すのは忍びない」と言いこれを委ねて去った。当初、嗣復は難を聞くと吏民を率いて城を修め門を立て、衆はこの功に赴き守備がおおむね整った。朝廷はこれを知り官を二等進め直祕閣を加え、睦州知州に抜擢した。かつて賊に傷を負わされていたが自ら力を尽くして江を渡り宣撫使に援軍を求めようとしたが赴く前に卒した。
  • 宋旅、字は庭実、莆田の人。進士に及第し累進して奉議郎・剡県知県となる。方臘がすでに歙・睦・杭・衢・婺の五州を陥落させ越にも侵攻し越の盗も呼応すると、県吏の多くは逃亡したが、旅は妻子を海路で閩に帰らせ独り民とともに城を守り、忠義で激励し部隊を編成し備えを整えた。まもなく賊衆が大挙して至り、旅は自ら壮鋭を率いて矢石を冒し多くを殺傷したが力及ばず戦死した。越帥・劉韐がこれを朝廷に上申、詔により朝散郎を贈られ四子が登用された。
  • 丁仲修、字は敏之、温州の人。方臘の徒党・俞道安が楽清を陥落させ江を渡ろうとした際、巡検陳華が捕えようとして死んだ。先鋒将張理は李振とともに南門から出撃したが八接橋を渡ろうとして橋が断たれ馬が倒れ溺死した。賊が帆を上げて夏祥に迫ると、輔褒が迎撃したが数十合戦って死んだ。仲修は郷兵を率いて楽湾で防いだが郷兵が拠点を失って散り、仲修は残兵と戦い力尽きて死んだ。
  • 項徳、婺州武義の人。郡の禁卒。宣和間、盗が幇源で起こり翌年婺州を陥落させ邑も陥ちたが、徳は敗残の兵百人を率い城隍祠に拠って戦い、二月から五月まで東は江蔡、西は董奉、北は王国と大小百余戦を交え、出れば先鋒、入れば殿を務め、俘虜・首級の数は計り知れなかった。賊は徳を「項鷂子」と呼び、その鉦の音を聞くと相次いで逃げたという。徳が永康の諸県回復を図ろうとしたところ官兵が来援したため合流を図ったが、賊は精鋭を集めて黄姑嶺下で邀撃し徳は戦死した。邑人は哭声を山谷に響かせ、その像を描いて歳時に祭った。