徐應鑣
- 字は巨翁、衢州江山の人。代々衢州の名家。咸淳末、太学生に補せられた。徳祐二年、宋が滅び瀛国公が燕に入るとき太学の三学生百余人がみな従ったが、應鑣は従うことを望まず子の琦・崧、娘の元娘とともに焼身自殺を誓った。皆喜んでこれに従った。太学はもと岳飛の邸で飛の祠があり、應鑣は酒肉を備え岳飛を祀り「天が宋の社稷を祐けず廃墟となった。私は死をもって国に報い、諸生とともに北へ行くことはしない。死せば魂魄は王に配され神主として永久に消えない」と誓った。子の琦も詩を賦して自誓し、祭祀の後、酒肉を諸僕に与え僕たちが酔い臥すと、應鑣は子女とともに梯雲楼に上り、各房の書籍箱笥を四方に積んで放火し自焚した。眠っていなかった小僕が火の音に気づいて起き、楼下の穴から窺うと應鑣父子は端座し廟の塑像のように見えた。僕たちが壁を壊して火を消し止めたが應鑣は死にきれず、子女とともに悄然として戸を出て去り、行方が分からなくなった。翌日、祠の前の井戸に遺体が発見され、皆立ったまま硬直し目を瞠り生けるがごとくであった。諸僕が棺を用意して西湖金牛の僧舎に殯した。益王が福州に立つとその節を褒め、朝奉郎祕閣修撰を追贈した。十年後、同学であった劉汝鈞が儒者五十余人を率いてその遺骸を収め方家峪に葬り、私謚を「正節先生」とした。