厓山に殉ず
- 字は君実、楚州塩城の人。三歳のとき父が鎮江に移住、やや長じて郷里の孟先生に学んだ。孟の門下生は百人余りいたが、孟は独り秀夫を指して「これはただならぬ子だ」と言った。景定元年進士登第、李庭芝が淮南を鎮すると名を聞いて幕中に招いた。当時「天下で最も士を得たのは淮南」と称され、幕府は「小朝廷」と呼ばれるほどであったが、秀夫の才思の清麗さは当時の文人でも及ぶ者が少なかった。性格は沈静で人に迎合を求めず、同僚が来ても賓主が交歓する中、秀夫独り控えめに一言も発しなかった。宴席でも威儀を正して一日中崩さず、事に臨むとすべて的確に処理し、庭芝はますますこれを重んじ、官が変わっても手放さなかった。幕に入って三遷し主管機宜文字となり、咸淳十年、庭芝が淮東制置使となると参議官に抜擢された。徳祐元年、辺事が急を告げ僚属の多くが逃亡する中、秀夫ら数人だけが残り、庭芝はその名を上奏し司農寺丞に任じ、累進して宗正少卿兼権起居舎人となった。二年正月、礼部侍郎として軍前に和議のため赴いたが果たせず戻った。二王が温州に逃れると、秀夫は蘇劉義とともにこれに従い、陳宜中・張世傑らを召し寄せて福州で益王を立て、端明殿学士簽書枢密院事に進んだ。宜中は秀夫が久しく軍にあり軍務に通じているとしてしばしば意見を求め、秀夫も心を尽くして輔佐したが、まもなく宜中と意見が合わなくなり、宜中は言官に弾劾させて秀夫を罷免した。張世傑が宜中を「このような非常時に台諫を使って人を弾劾するとは何事か」と責めると、宜中は恐れて秀夫を呼び戻した。当時君臣は海浜を漂流し諸事が疎略な中、楊太妃は簾を垂れて群臣と語る際も自ら「奴」と称し、時節の朝会のたびに秀夫は威儀を正して笏を立てて治世さながらに立ち、時には行列の中で悲しみに涙し朝衣で拭うため衣が濡れ、左右の者も皆感動した。井澳で颶風に遭い王が驚愕して病死すると、群臣は皆散り去ろうとしたが、秀夫は「度宗皇帝の一子がなお残っている、これをどこに置くつもりか。昔の人は一旅一成の小勢からでも中興を成した例がある、今は百官も具わり士卒も数万いる、天がいまだ宋を絶とうとしていないのなら、これでも国を興せぬはずがない」と言い、衆と共に衛王を立てた。当時陳宜中は占城に赴いており世傑と不和で召しても戻らなかったため、秀夫を左丞相とし世傑とともに政を執らせた。世傑が厓山に駐屯すると、秀夫は外では軍旅を籌り、内では工役を調え、あらゆる文書はすべて秀夫の手によるものであった。慌ただしい流離の中にあっても日々大学章句を書いて講義を続けた。至元十六年二月、厓山が破れると秀夫は衛王の船に走り、世傑と劉義がそれぞれ繋留を断って去るのを見て脱出は不可能と悟り、剣で妻子を追い立て海に入らせ、自ら王を背負って海に身を投げて死んだ。享年四十四。翰林学士・劉鼎孫もまた家族と重物を率いて海に沈めようとしたが死にきれず捕らえられ、拷問で満身が傷だらけになったが一夜にして脱出しついに海に身を投じて死んだ。鼎孫は字を伯鎮といい江陵の人で進士であった。秀夫が海上にいたとき二王の事跡を一書に詳しく記し、礼部侍郎鄧光薦に「あなたが後に生き残ったら、これをぜひ伝えてほしい」と託した。厓山平定後、光薦はその書を廬陵に持ち帰った。大徳初年、光薦が没するとその書の存否は不明となり、海上の事跡の詳細は世に伝わらなくなったという。