宋史卷四百五十一 列傳第二百十 張世傑

張世傑

  • 范陽の人。若くして張柔に従い杞に駐屯したが罪を得て宋に奔り淮兵に加わったが無名であった。阮思聰が見出し評価し呂文徳に伝えたところ文徳が小校に召し抱え、累功して黄州武定諸軍都統制まで進んだ。安東州を攻め力戦し、高逹の鄂州救援でも功績があり十官進んだ。まもなく賈似道に従い黄州に入り、蘱草坪で戦い捕虜を奪還し環衛官を加えられた。高郵軍・安東州知州を歴任した。咸淳四年、大軍が鹿門堡を築くと呂文徳は朝廷に援兵を求め、世傑は夏貴とともに赴いた。呂文煥が襄陽を降すと、世傑は五千の兵で鄂州を守るよう命じられ、鉄鎖で両城を結び砲弩で要津を固め杭や攻具を配置したが、大軍が新城を破って長駆すると、世傑は力戦したが前進できず、招降にも応じなかった。丞相バヤン(伯顔)は表向き厳山の隘を攻め、密かに舟で唐港から漢水に入り鄂州を攻め、鄂州は降った。世傑は所部の兵を率いて臨安防衛に参じ、饒州回復後に入朝、時局が危急の中、諸将の勤王要請に多くが応じない中、世傑だけが来たので上下が驚嘆した。和州防禦使からわずか数か月で保康軍承宣使まで累進し、都督府の兵を総べ、諸将を各地に遣わして浙西の郡を奪回、平江・安吉・広徳・溧陽の諸城を回復し兵勢が振るった。この月、劉師勇ら諸将と共に焦山で大出撃し、十舟を組んで方碇に固定し、必死の陣形を示したが、元帥アジュ(阿术)が彀士を乗せた舟で火矢攻撃を行い、世傑軍は混乱して碇を上げる暇もなく江に落ちて死んだ者が万余人、大敗して図山に逃れた。上疏して援軍を求めたが応じられず、まもなく龍神衛四廂都指揮使に抜擢、十月、沿江招討使から制置副使兼知江陰軍に改まった。まもなく大軍が独松関に至り、文天祥が入衛を命じられると、世傑は保康軍節度使・知平江に任じられたがまもなく入衛を命じられ検校少保を加えられた。徳祐二年正月、大軍が臨安に迫ると、世傑は三宮を海に移し文天祥と合兵して背城の一戦を挑もうとしたが、丞相陳宜中が和議を進めていたため許されず、太皇太后に訴えて阻止したがすぐに和議も頓挫した。大軍が皋亭山に至ると世傑は兵を率いて定海に入った。石国英は都統卞彪を遣わして降伏を説かせようとし、世傑は彪が自分とともに南へ帰参する使者だと思い牛を殺してもてなしたが、酒宴の途中で彪が本音を語ると世傑は激怒し舌を切って裂き殺した。四月、二王に従って福州に入り、五月、陳宜中とともに端宗(昰)を主に立て簽書枢密院事を拝した。王世強の手引きで大軍が攻めると、世傑は益王を奉じて海に逃れ、自ら陳弔眼・許夫人らの諸翼兵を率いて蒲寿庚を攻めたが下せなかった。十月、元帥唆都が援軍として来ると囲みは解かれた。唆都は使者を送って益王に降伏を勧め、また経歴・孫安甫を遣わして世傑を説得させようとしたが、世傑は安甫を軍中に留めて放たなかった。招討使劉深が浅湾を攻めると世傑は敗れ、王を井澳に移したが深が再び攻め、世傑はこれを退けた。因って碙州に移った。至元十四年正月、王用を遣わして雷州を攻めさせたが敗れ、四月、益王が殂じ衛王昺が立ち、世傑は少傅・枢密副使を拝した。五月、瓊州安撫張応科を遣わし雷州を攻めさせ、三戦したが利を得ず、六月再び決戦し雷城下で応科が戦死した。世傑は碙州が居住に適さないと考え王を新会の厓山に移した。八月、越国公に封ぜられ、瓊州の粟を発して軍に給した。十月、凌震・王道夫を遣わし広州を襲わせたが震は敗れた。翌年、元帥張弘範らの兵が厓山に至った。ある者が世傑に「北兵は舟師で海口を塞げば我らは進退窮まる、先に海口を占拠すべきだ、勝てば国の福、負けても西へ逃げられる」と説いたが、世傑は久しく海上にいて士気の離散を恐れ、「長年航海したこの生活はいつまで続くのか。今こそ決着をつけるべきだ」と言い、行朝の草市をすべて焼き払い、大船千余艘を集めて木の砦を作り死守の構えを見せた。人々はこれを危ぶんだ。まもなく弘範の軍が至り海口を塞ぎ、樵採・水汲みの道が断たれ、兵は乾糧を十余日食い続け、渇きが甚だしく海水を掬って飲むと嘔吐下痢を起こし軍は大いに困窮した。世傑は蘇劉義・方興を率いて日々大戦した。弘範は世傑の甥・韓を捕らえ官職を約させ三度招降させたが、世傑は古の忠臣を数え上げて「降れば富貴を得るとは知っているが、私は主のために死ぬまで節を変えぬ」と答えた。二月癸未、弘範らが厓山を攻め、世傑は敗走し衛王の船を目指したが、大軍が中軍に迫った。世傑は繋留を断ち、十余艦で港を脱出したが、のち引き返して厓山の兵を収め、劉自立を撃破して降伏させ、将・方遇龍・葉秀栄・章文秀ら四十余人を降した。世傑はなお楊太妃を奉じ趙氏の後継を立てようとしたが、たちまち颶風で舟が壊れ、平章山下で溺死した。
  • 劉師勇は廬州の人で戦功により環衛官を歴任した。魯港で師が潰えたとき賈似道は東の海に逃れようとし、師勇はそれを助けて揚州に入り再挙を図った。似道はこれに従い、姚訔が常州を回復したとき似道は師勇に淮兵で呂城を取らせ、朝廷は師勇を和州防禦使に任じ、姚訔とともに常州を守らせ、張彦に呂城を守らせて大軍に対抗させた。しかし戦況は不利で、彦の馬が弱く泥に沈み捕らえられ、呂城が失われると常州の情勢は益々孤立した。大軍は彦を城下に連れてきて降伏を勧めさせたが、師勇は大義をもって彦を叱責し彦は恥じて退いた。范文虎が来て師勇を説得しようとしたが伏弩で射て追い返した。常州は数か月にわたり包囲され援軍は絶え、羣鴟が飛び鳴きながら城を巡り人々は不吉と嫌ったが、まもなく城は陥落した。師勇は柵を突破して退却しつつ戦い、その弟は堀に落ちて跳び出せず、師勇は手を挙げて訣別し去った。淮軍数千人はみな闘死し、ある婦人は積み重なる屍の下に隠れ、淮兵六人が背を合わせて敵百人以上を殺してから斃れるのを見た。師勇は二王に従い海上に至ったが、時勢を憂い酒に溺れ、ついに鼓山に葬られた。