宋史卷四百五十 列傳第二百九 趙與檡

趙與檡(趙孟錦・方洪)

  • 嗣秀王。徳祐二年浙閩広察訪使となる。益王擁立後、舅の楊亮節が権力を握り、與檡は皇族の親賢の身として国事に多く諫止を加えたため忌み嫌われ、諸将にも憚られた。まもなく北兵が浙東に迫ると瑞安に出され、守臣方洪と共に防備にあたった。朝臣は與檡の忠(劉更生の忠に例える)と孝(曹王臯の孝に例える)を惜しみ留任して国本を輔けるべきと述べたが、讒言はいよいよ激しくなり、ついに瑞安に遣わされた。瑞安が包囲されると與檡と洪は死守を誓ったが、小校李雄が夜に開門し外兵を引き入れた。與檡と洪は衆を率い巷戦したが敗れ捕らえられた。董文炳が「お前は秀王か、今は降れるか」と問うと、與檡は厲声で「私は国家の近親、力尽きて死ぬのは当然のこと、何を問うのか」と答え、殺された。方洪も節を守って死んだ。
  • また趙孟錦という人物がおり、若くして拘束されず淮に遊び軍功をあげて将佐となった。北兵が真州を攻めると毎戦先陣を切り、守将苗再成に重んじられた。北兵の重艦が江上に停泊していたとき、濃霧に乗じて奇襲したが、霧が晴れて日が高くなると北兵が少数と見て追撃し、船に登ろうとして足を滑らせ、重甲を着けたまま水に落ちて溺死した。