西和州・文州に死す
陳寅
- 陳寅、宝謨閣待制陳咸の子。西和州知事として金の10万の大軍を迎え、家族28口を留めて必死の防衛を誓い、援軍が来ぬまま城が陥落。妻の杜氏は「君と共に生き死ぬのが道」と自ら服毒、子2人も死んだ。陳寅は朝服で戦楼に登り「国に負かず」と拝礼し伏剣して死んだ。華文閣待制・諡襄節を贈られた。
賈子坤(附伝)
- 賈子坤、字は伯厚。嘉定13年(1220年)進士。西和推官として陳寅と共に死守を誓い、城陥落時に一家12口と共に死んだ。子孫は代々忠孝で知られ、孫の賈純孝は厓山の戦いで妻子と共に投海した。
劉銳(附伝)
- 劉銳、文州知事。嘉熙元年(1237年)金軍の攻撃を通判趙汝曏と共に2か月余り防いだが陳昱の裏切りにより苦戦、家族に毒を飲ませ自らも子2人と共に自刎した。趙汝曏は両腕を断たれ臠殺された。
蹇彛(附伝)
- 蹇彛、通泉の人。嘉定2年(1209年)進士。端平3年(1236年)金の蜀侵攻に対し金州通判として堅守したが捕らえられ屈せず死んだ。子の蹇永叔も戦死。弟の蹇維之も別の戦いで戦死。
何充(附伝)
- 何充、漢州徳陽の人。黎州通判として卭崃の防備を整えたが破られ自刺したが死なず捕らえられた。「趙氏に三世仕えた恩を裏切らぬ」と降伏勧誘を拒み続け、髪を剃られる屈辱も「殺されるとも辱められぬ」と拒み斬首された。妻の陳氏も罵倒して殺され、一族の多くが殉じた。