宋史卷四百四十八 列傳第二百七 呂由誠

襲慶府に死す

  • 呂由誠、字は子明。御史中丞呂誨の末子。范鎮・司馬光の知遇を得た。鄧州酒税監として営兵の反乱を鎮撫、三門白波輦運提挙、合水県知事などを歴任し霊州運糧で失敗のなかった実務能力を示した。
  • 成都府通判、雅・嘉・温・緜・嘉州知事を歴任し治績を残した。靖康元年(1126年)宰相唐恪の推薦を辞退し、襲慶府知事として赴任前に金軍が京師を再陥落させ張邦昌政権が立ったが、由誠は密かに逃れた。
  • 群盗蜂起の中、崩れた城郭を修復し防備を固め、李昱の10万の賊軍の侵攻を退けた。康王(高宗)の済陽移軍に食糧を供給。孔彦舟・胡選らの攻撃も凌いだが、金軍の総攻撃で城が陥落。判官趙令佳と共に降伏を拒み、子を殺されても屈せず殺された。子の呂偰以下一族40人が犠牲となった。孫の呂紹清が生き延び後にその死を朝廷に訴え、通奉大夫を贈られた。