宋史卷四百四十七 列傳第二百六 陳遘

中山府に死す

  • 陳遘、字は亨伯。江寧より永州に移った家系。進士に及第し莘県知事として治績を挙げ、広西転運判官として蔡京の蛮地開拓策に反対した。商州・興元府知事、駕部・金部員外郎などを経て給事中。
  • 河北転運使、淮南転運使を経て発運使副使から使に昇進。朱勔の花石綱の妨害を上章で訴え、朱勔は黥刑に処された。方臘の乱鎮圧に際し兵力増強を上奏し、経制銭の創設(のち総制銭の由来)を行った。
  • 妖賊の残虐な処刑の弊を諌め官吏の贓罪追及を上奏。杭州の水害復旧を冬季に牐(水門)の卒を集めて短期間で完成させた。
  • 河北都転運使、延康殿学士として中山・真定・河間府知事を歴任。欽宗即位後、資政殿学士として中山知事に復帰、康王を天下兵馬元帥とし遘は兵馬元帥を受けた。半年間の包囲の末、両河割譲の和議が成立するも、遘は弟の陳适に「主辱臣死、兄弟ともに国を売らぬ」と語った。
  • 総管に城中の兵を挙げて敵を撃つよう命じたが拒まれ処刑し、歩将沙振に出撃を強要したところ振は逆恨みして遘とその子・僕妾ら17人を殺害。長子の陳鉅のみ免れた。建炎初年、特進を贈られた。孝友な性格で長者として知られ、王安石・呂頤浩ら多くの人材を推挙した。金に連行され10年後、雲中で死んだ。