出自と生涯
- 汪藻、字は彦章。饒州徳興の人。幼くして聡明で太学に入り、進士に及第。婺州観察推官・宣州教授・江西提挙学事司幹当公事を歴任。
- 徽宗の「君臣慶会閣」詩の唱和で汪藻の作のみが評価され、当時「江左二宝(胡伸・汪藻)」と称された。九域図志所編修官・著作佐郎などを経たが、王黼と不仲で宣州通判・江州太平観提点となり、8年間登用されなかった。
- 欽宗即位後、屯田員外郎・太常少卿・起居舎人を歴任。高宗即位後、中書舎人に召され揚州で多くの上奏をしたが宰相黄潜善に憎まれ、集英殿修撰・太平観提挙に落とされた。
- のち再び中書舎人兼直学士院、給事中、兵部侍郎兼侍講、翰林学士。将帥の権力集中を諫める論などを行った。崇観以来の権貴への阿附による叙任を正すべきと論じた。
- 龍図閣直学士として湖州知事となり、顔真卿の忠節を顕彰するよう請願し、また日暦(国史編纂)の再興を上奏した。史館修撰として元符庚辰(1100年)以降の詔旨665巻を編纂し、進官した。
- のち蔡京・王黼の客であったことを言われて職を奪われ永州に居住、24年(1154年)に没した。秦檜死後に官職を復し、徽宗実録編纂の功により端明殿学士を贈られた。
- 30年間家を持たず博識で読書を怠らず、『春秋左氏伝』『漢書』を好んだ。子は6人(恬・恪・憺・怲・懔・憘)。