出自と生涯
- 陳與義、字は去非。先祖は京兆の人で、曾祖父の陳希亮の代に洛陽に移り住んだ。
- 幼くして文才に優れ、政和3年(1113年)に上舎甲科で及第し、開徳府教授に任じられた。太学博士・符宝郎を歴任し、のち陳留の酒税監に左遷された。
- 金軍が汴京に侵入すると高宗の南遷に従って襄陽・湖湘・嶺嶠を転々とした。のち召されて兵部員外郎となり、紹興元年(1131年)に行在に至って中書舎人兼知制誥、さらに吏部侍郎となった。
- 徽猷閣直学士として湖州知事、給事中として駁議に功があり、顕謨閣直学士として江州太平観提挙となったが、宰相に嫌われ再び中書舎人・直学士院に起用された。
- 紹興6年(1136年)9月、高宗の平江巡幸に従い、11月に翰林学士知制誥。7年(1137年)正月参知政事となり、丞相趙鼎の主戦論に対し和議やむなしとする立場をとった。
- 同年3月、建康に扈従し、翌年臨安に還る途上病を得て資政殿学士として湖州知事となり、11月に致仕して臨安洞霄宮提挙となり、まもなく49歳で没した。
- 容儀は厳めしく軽々しく物を言わなかったが、内は剛直で人に犯されず、士を推薦しても他人に語らなかった。詩に長じ、陶淵明・謝霊運・韋応物・柳宗元の間を行く風格と評された。「墨梅」の詩を徽宗に激賞され、それにより知遇を得た。